《蒲生氏郷の高祖父 貞秀が築いた音羽城跡@日野町》

 

台風の風雨の合間を縫って墓地の一斉清掃をした昨朝、

木に絡みついた葛のツルを鎌で払う作業をしていたら

またまたヤマビル攻撃に遭い...

2か所も吸血されて...ヤレヤレ。

首筋についた跡が...かい~の。

天候不順の夏は こんなモンか~...の 諦め。

 

昨夕は吹き返しの風の中 

赤白の盆提灯や線香にロウソク そして仏花とお供えを持って

墓参りに行けたし...ホッ。

 

それにしても お盆にこんな赤白提灯を墓に飾るのは美濃地方だけか知らん。

 

いつも通りに仏壇前でも読経して...淡々と過ぎ行くお盆。

さて、

滋賀県の日野城跡と合わせて7月に訪れた音羽城跡を無視するのは

忍びがたし。

なので記録しとこ。

滋賀農業公園ブルーメの丘からもそう遠くないロケーション

音羽城跡の駐車場脇に咲いていたアキノタムラソウ

下城時に くるぶしにヤマビルがついていた登城口

ギャ~と払い落したわ。

どこもかしこも蛭(ヒル)ばっかりやん。

雨上がりやったんでヒルが付かんよう

帯曲輪や切岸を横目に見ながらタッタッタッと行ったんやけどなあ...

土塁を越えれば

蒲生氏郷の生涯を紹介したパネルが木々にぶら下がっていた出曲輪跡

伝 本丸跡は 雨上がりの地面がジュックジュク...で、やばい。

大正時代、土砂採集用に腰曲輪がトロッコ道になっちゃって...

ああ城跡無残。

そんな本丸の縁に 初代音羽城主の蒲生貞秀ストーリーが

木から ブラブラ。

六角氏の重臣として伊庭氏の名も出てきますね。

室町時代の連歌師 宗祇もこの城に来たとな。

深い井戸を覗いてカシャ。

庭園跡は藪の中

竪堀跡と奥に土橋

こんなのもありましたよ。

穴の出口

途中 陥没している地点もあり 地下通路があった証かな。

でもね...

先ほどの土橋の下を通らんと本丸からの抜け道は作れやろなあ...

と思ったのはこのジジイだけ?

では最後に... 

関ケ原合戦で石田三成の家臣として戦った蒲生備中(=蒲生頼郷=横山喜内)のコトを少々。

本日 関ケ原古戦場記念館でガイドをしていたら この蒲生備中は横山喜内ですよねと言ってきたお客さんがおられて....でら驚いたわ。

 

奇しくも 先日 横山町がある東近江市役所に2件の質問メールをしたら

親切に回答してもらえたので 記しておこう。

東近江市歴史文化振興課 Kさんより

 

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1 横山城の築城時期、築城者及び横山喜内との関係性:
はっきりとした築城時期と築城者は不明ですが、「近江名跡案内記」第八巻 439ページ 御代参街道 横山氏居址 には、「横山村ニアリ横山太郎左衛門ハ六角氏ノ旗頭ナリ其裔横川(原文ママ)蔣監蒲生氏の蔣ト爲ル」との記載があります。

そして、「蒲生町史」 第一巻 716ページに寛正4(1463)年に六角氏重臣伊庭貞隆から横山将監への書状があったと記載があります。

この横川蔣監と横山将監が同一人物であるならば、少なくともその頃には横山氏は横山に居を構えていたということになるかと思います。
また、「近江蒲生郡志」 巻参 341ページ 第三十三章 蒲生喜内 には、「喜内は横山氏なり其先は本郡横山村(朝日野村)に住し…(略)」との記載があります。

その他、「蒲生町史」 第一巻 716ページには、「この喜内は、横山氏から出たといわれ、(中略)彼が横山氏の嫡流かどうかは不明であるが、(略)」との記載もあります。

2 横山神社の御祭神: 資料がなく不明です。

 

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関ケ原合戦から422年も経つと... こんなものですかね。

それにしても 資料に基づく回答....アッパレで おおきにです。