戦国時代のキリシタン大名は 誰でしょね?...なんて聞かれれば

有名どころでは...大友義鎮(宗麟)・小西行長・高山右近とかね...

中でも 会津に移封となった時に42万石(その後検地・加増により約92万石)の大名に上り詰めた蒲生氏郷(がもううじさと)を忘れがち。

洗礼名はレオンです。

蒲生賢秀(かたひで)の三男(鶴千代)として1556年生まれ。

六角氏が信長に滅ぼされると 臣従の証として12歳で織田家に人質として岐阜城に送られ... 才覚メキメキメキ...で、信長の娘婿となり...

本能寺の変の後は秀吉の家臣として戦功トントントン。

その氏郷が生まれたのが 中野(日野)城です。

氏郷の祖父から3代にわたる蒲生氏の居城。

冒頭の写真は 赤い矢印の方向から内堀跡越しに本丸跡の北側を撮ったもの。

1966年に完成した治水・灌漑用の日野ダム建設によって

城の遺構は大きく損なわれた上、本丸跡は うなぎ屋さんとか宅地に変わってしまってオヨヨ。

地形図につけた緑の矢印方向に撮ったのがこれ。 

水辺の風景としての美しさはありますけど...

地形図上の青い矢印方向の写真がこちら。

土橋の上から左の堀と 本丸北にある堀切。

石垣は後世のものやろね。

民家の前に 産湯の井戸があるのが....微妙

道路脇には石碑。

でも、右後方から左奥に向かう窪地があり 空堀を偲べる感じかも。

会津から九州に向かう際に 東山道 武佐宿から故郷の 綿向山(わたむきやま)を望んで....感傷にふけったんやろね。

日野町内の雲雀野に筆を持った 銅像がありましたよ。

この像は30歳代やろけどね~...三木のり平さん似。

40歳で鬼籍に入ったげな。

で、死因は 直腸がん説が有力...

わかるんや...で、へ~っ。

実を言うと...昨日 滋賀県蒲生郡日野町を訪れたのは

関ケ原合戦で三成家臣として参戦した蒲生頼郷(がもうよりさと)の関連史跡を探そかしゃんと思ったんでね。

先ずは 観光協会がやっている日野まちかど感応館(旧 正野玄三薬店)へ。

問い合わせれば 郷土史の重鎮に電話確認までしてもらえて...おおきにです。

日野には頼郷関連史跡は無~し!!やとさ。

ならばと 氏郷の史跡を辿ったわけ。

蒲生家の氏神である馬見岡綿向神社の参道脇は若松の杜と呼ばれ、今は昔 立派な松並木やったげな。

で、氏郷が遊んだこの日野の若松から名を採って会津黒川を会津若松に改名したとはね~....知らなんだ。

蒲生家や日野商人の崇敬をうけ、16輛もの曳山や神輿が集まる日野祭のお社。

鈴鹿山脈の綿向山(標高1110m)の山頂に鎮座する大嵩神社の里宮です。

時代劇のロケ地にもなりそうな エエ雰囲気やん。

季節外れの雪の中 大猪に導かれて頂きに到着した大昔の伝承から イノシシまるけ。

でも、摂社の狛犬も負けてへんよ。

蒲生家の菩提寺...信楽院(しんぎょういん)へもお参り。

本堂に上がれば誰一人いない静寂で

浄土宗のお寺さんならばと

阿弥陀如来像の前で 日常勤行式を読経させてもらいました。

スッキリ。

天井画も素晴らしい。

日野出身の江戸時代の絵師 高田敬輔(けいほ)の筆

境内の墓地にある遺髪塔

お寺の裏あたりへも周り 氏郷が茶の湯に使ったとされる「若草の清水」...

千利休の筆頭弟子やもんね。

利休が秀吉の逆鱗に触れて切腹させられた際、その養子少庵を会津若松の城に匿ったので 今に続く千家がある...と言うのも へ~っ。

そんな氏郷は一人で何でもこなしてきたせいか

次代を補佐する有能な家臣が育っていなかった中、若くしてあの世へ...となれば

お家はゴタゴタ。

結局 関ケ原合戦の前は氏郷の子(信長の孫)秀行が宇都宮18万石に大幅な減封。

この時に 蒲生頼郷(=横山喜内)はさすらいの牢人(浪人)となり...

石田三成の家臣となったんやね~。

で、秀行の方は...軍功もあり 家康の娘婿だったので会津に60万石で復帰。

でもね~。

会津地震や お家騒動続きで心労がたたり酒におぼれ...秀行は 30歳の若さで逝っとは...あらら。

氏郷は あの世でずっこけたやろね。

...「お前もか~っ!」

秀行の子(氏郷かつ家康の孫にして 信長のひ孫)、 忠郷は26歳 忠知は31歳で 共に天然痘による病死とは...

まさかや~。

早死にばっかりで最後はお家断絶やん!

結局 日野からの帰りしな 東近江市横山町に寄り道して

年配者や お寺さんに 蒲生頼郷(横山喜内)のコトを聞いてみたけれど

皆さん...知らん知らん...と言われるばかり

アレレの当て外れやったけれど... 

櫟神社の境内の隅に こんな摂社をみつけて 好奇心ムクムク....

お楽しみは続くぜ~。