ドライブ・マイ・カーに続いて映画について取り上げます。


「ザ・バットマン」。

広島と無関係ではなく、先日福山市が「ザ・バットマン」に出てくる架空の都市ゴッサムシティと友好都市となりました。


ゴッサムシティはヴィラン(悪役)が多数出没する超犯罪都市という設定なのですが、洒落が分かる市民の方々と市長さんのお陰で、この面白い取り組みが実現しました。


映画バットマンシリーズはほとんど観ているのですが、80〜90年代のバットマンが正義のヒーローとして登場しているのに対し、00年代以降のバットマンは正義について自問自答する悩める存在として描かれます。


名作の誉れ高い、00年代のバットマン映画「ダークナイト」では、故ヒース・レジャー演じるヴィラン・ジョーカーが、執拗に正義の欺瞞さ、不安定さをバットマンに問います。


それは自国の正義を疑わず突っ走ってきて、9.11が突然に勃発し、自らの正義に疑心暗鬼となったアメリカの情勢とリンクします。


これまでベトナム戦争時などでも、その正義について疑問の声を上げるアメリカ人は多数いましたが、世界の警察を自称するだけの国力を誇っていたアメリカだったので、「アメリカの正義」の根幹を揺るがすまでには至りませんでした。


それが揺らいできた00年代。

10年代になると、「悪」と断罪してきた存在にも理があるのではないかと、さらに「アメリカの正義」は混迷を極めます。


それを端的に表したのが、バットマンシリーズのスピンオフ「ジョーカー」です。

バットマンシリーズの最恐最悪のヴィランであるジョーカーは、実は障害を持ち、資本主義社会に於いて虐げられてきた存在であった、という切り口で描かれたこの作品は、正義の名の下に問答無用でヴィランを殴りつけるバットマンが果たして正義と言えるのだろうか、という疑問を観衆に投げかけ、「ダークナイト」に勝るとも劣らない評価を得ました。


そして20年代に登場した「ザ・バットマン」。

20年代にアメリカの正義をバットマンはどう体現するのか。

それを確かめに映画館に足を運びましたが、冒頭からバットマンの描かれ方が、正義とは呼べないものであることに衝撃を覚えました。


闇の中から登場し、自らを復讐者と称するバットマンは、混迷極めるアメリカの「正義」を正確に体現する存在に見えました。


そんなバットマンが、話が進むにつれ心境の変化があり、終盤にはこれまでと違う、希望を感じさせるような行動をとります。


その行動を現実世界に置き換えても、今の世界を塗り替えられるような思想ではないし、まして今のロシアによるウクライナ侵攻の解決になり得るような代物ではないですが、それでも90年代までのマッチョな「正義」、00年代10年代の「正義」への不信感を経て、少し前向きな「正義」が観れた気がしました。


「ダークナイト」、「ジョーカー」という、映画史に残るような傑作を経ての新しいバットマン映画は、相当に高いハードルだったでしょうが、見事に期待に応えてくれた映画であることは間違いないと思います。