“好き”になると、それを手に入れたいと思ってしまうので、思うように手に入らない苦しみが付いてまわる。

 

でも、“好き”な物や人には心地よさを感じていて、そんな“快”を持った対象が自分の中に存在することになるので、“好き”って気持ちを持つこと自体が嬉しいこと。

 

ここまでがおさらいで、いよいよ“好き”の核心に迫っていきます。

 

“好き”になった時をイメージにすると、自分から対象にハートの矢印が飛んでいっている感じです。まずは、一方通行の矢印をイメージしてください。

 

一方通行ですが、“好き”になると、対象と繋がれます一方通行の方向性を持った糸で繋がっている関係ができます。

 

これが、自分が世界と繋がっているとか、自分が世界に存在している実感になります。

 

なんだかややこしくなってきていますよね。順を追って説明します。

 

~~~ここから小難しい話になります~~~

 

今ここで言っている“世界”とは、今僕たちが生きている現実世界のことです。この現実世界は確かに存在しているようですが、もしかしたら勘違いかもしれません。

 

現実なのに存在していないってどういうこと?とわけわかんなくなりましたか。

 

この現実世界を認識しているのは僕であり、このブログを読んでくれているあなたです。僕が捉えている現実世界とあなたの現実世界は、同じかもしれないし違うものかもしれません。同じ世界で生きていると思っていますが、見ている景色は違うし、同じ物や人をどう思うかも違います。これは、僕がどうやってもあなたになることはできないし、あなたが僕になることもできないから仕方がないし、万が一同じだったとしても確かめようがありません。

 

つまり、ほとんどの人が確かにあると思っている現実世界は、みんなに共通している同じ世界が絶対的に存在しているわけではないのです。世界は、僕やあなたが認識するように、認識するがままに、それぞれに存在しているのです。

 

もうちょっとキザな言い方をすれば

僕たちはそれぞれが見たいように世界を見ている

となります。

 

これ、ほとんど全ての事象に当てはまります。時間も、命も、地球も。世の中の出来事全てが、それぞれの人の見方で見えています。言うなれば、世界は僕たちが認識するから存在するのです。

 

なんだか足元がぐらつくような不安を感じましたか。でも我慢して、もうちょっとだけ付いてきてください。

 

世界の存在が僕の認識次第であると同様に、自分の存在も自分自身が認識しているから存在します。もし存在していないと認識しているなら存在しません(厳密には存在していない人が○○と認識することは不可能なので、存在していないという認識はありえない)。

 

つまり、世界も自分も何もかもが、認識されるままに存在しているということです。

 

自分も世界もすごく不安定なものなのです。自分の存在は、自分で認識するから存在するのですが、自分がわからないとなっていると、その存在自体が怪しくなってきます。

 

自分ってなんなんだろう、と自分をとらえられないでいる人はたくさんいます。どんな人でも、一度はそんな感覚に陥ったことがあるのではないでしょうか。そんな時は、自分の輪郭がはっきりしない感じです。このぼんやり感が強まっていくと、自分が存在しているのか生きているのか、その実感すらもはっきり持てない状態になります。

 

でも、“好き”って気持ちがあると、自分が存在することになります

何かを“好き”な自分は確かに存在しているからです。

 

今の話をイメージにします。

 

世界という大きな球体があって、それはもやのようなもので覆われているので全体が見渡せないどころか、本当にあるのかも怪しいぐらい、って想像してみて下さい。でもどうやら、あるにはあるみたいです。そんな世界の周りに漂うように浮かんでいるのが僕ら自分です。地に足がついておらず、なんだか世界に居場所がないような、世界としっかり繋がれていないような不安でいっぱいです。

 

そんな状態ですが、“好き”な気持ちが芽生え、ハートの矢印が飛んでいくと、世界のどこかにいる人や物と繋がります。不安定にふわふわしていた自分と、“好き”になった対象が一方通行の糸で繋がります。風船のように漂っていた自分が、“好き”という気持ちの糸によって世界に結び付けられました。

 

自分ひとりだけでは、自分自身の存在に自信がなかったけど、

“好き”な対象と繋がることで自分の存在がより確かなものになります。

さらに、世界と繋がっている実感が強まります。

 

どうですか、なんとなくでもイメージできましたか。

 

今の話を一言でまとめると、

誰かと関係ができることで、自分の存在は確かなものになる

ということです。

 

“好き”って気持ちによって、誰か(人)や何か(物)との関係が出来るので、僕たちは世界に存在するようになれるのです。

 

世界は僕たちが認識することで存在します。この状態は、僕が世界を遠くから眺めているような感覚ですが、その世界にある人や物を“好き”になると、世界との距離は一気に縮まり、世界の中に自分が存在するようになるのです。

 

有名な哲学者デカルトのフレーズに「我思う、ゆえに我あり」というものがあります。これを僕なりに解釈すると、

“好き”って気持ちを持つから自分は存在するのであり、“好き”って気持ちによって世界と繋がっていけるということ

です。

 

 

すごく壮大な話になってきましたが、ポイントはシンプルです。今までの話がいまいちピンとこなくても、次に説明するポイントさえ押さえてもらえれば大丈夫です。

 

“好き”って気持ちは、自分の存在の肯定につながる。

(注:いわゆる自己肯定感とはちょっと違う)

 

“好き”って気持ちによって、生きている実感が強くなる。

 

“好き”な人が出来ると、一人ぼっちじゃなくなる。

(これが素晴らしいところ!)

 

 

だから、“好き”な人が出来ると世界が一変するのです。生きる力(生命力)が強くなるのも納得です。“好き”が生きる希望になるのはこういうわけなのです。

 

 

自分なんか誰からも認められていないんだ、認められないってことは自分は存在していなことと同じだ、と世界に絶望している人がいたとします。こんな状態の先には自殺があるのかもしれません。でもこの人が、ひょんなことから誰かに対して“好き”って気持ちを持ったらどうでしょうか。

 

もうちょっと具体的な話に変換すると、日々の生活に疲れている人にとって、推しの存在は、世界と自分を繋げてくれるものです。推しのために自分は生きているような感覚、想像できませんか。

 

なんとなくでも想像できた人向けに、さらにもう一つ条件を追加して考えてみます。

 

“好き”になっている対象が、自分のことを認識してくれていたり、万が一自分のことを“好き”だったらどうでしょうか。

 

世界からも求められていることになりませんか。

 

自分が世界と繋がり、世界からも求められる。

お互いに求め合う、引かれ合う、こんな求心力に溢れた状態が相思相愛です。

“好き・好き”です。

 

“好き”って気持ちを多くの人が素晴らしいと絶賛するのは、このようなわけで、自分が生きている、存在している実感に繋がるからです。

 

人を“好き”になる時にこんなこといちいち考えてないし、感じていないよと納得いかない人もいるでしょうが、気持ちが人を繋げていくという感覚はわかりますよね。心で人と人は繋がっていく。繋がりって感覚的なもので不安定ですが、多くの人はそれを求めています。

 

 

“好き”は、

苦しくもあり、

嬉しいことでもあり、

誰かと繋がっていくきっかけとなり、

自分が生きている実感となるもの

なのです。

 

 

なんだかちょっといい話風になってきましたが、これで終わりではありません。“好き”のイメージは、ハートの矢印が飛んでいく感じでした。この矢印は一方通行です。つまり、自分勝手ということです。

 

そう、“好き”は自分勝手な気持ちです。だから危険なのです

(つづく)

 

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