久しぶりに個人的なブログを書いてます。
最近はメモとして、コピペが多かったから、少し自分の気持ちを整理してみたくなったのか。
飽くまで個人的な思い、今の状況の、私的なものですが今回はちょっと綴ってみたという感じです。自分自身をしる(識る?)ためにかな。
読むも読まぬもご自由にされて下さいという、徒然なる日記(?)です。
長くなりましたし、貴重なお時間を奪いたくないのでその辺は宜しくお願い致します。🙏
小さな観音堂。
数珠のようなものが入り口にあります。
入り口にある呼び鈴(と言って良いのか?)は、神社では「邪気を祓う」という意味があるけれど、お寺では「仏様へのご挨拶」という、役目のようです。
なので、
"心静かにつつましく鳴らすようにします"とありました。👇🏻より
そして、帰り道には神社⛩の方へ。
こっちはおなじみの鈴だから、
カラカラカラ〜と普通に鳴らし、邪気払いとご挨拶。🙏
やっぱり、祓っていただくっていいですね。
神社は祓いの文化。
先日図書館で借りた本には、
まず、来ましたよというご挨拶を呼び鈴🛎でしてから、お賽銭を入れ、
しかし投げ入れるのではなく、そっと入れましょう。
と、ありました。(本は最後の方でご紹介してます。ブログは長くなってしまったのでかなり先になりますが。)
小銭はチャリ〜ンと投げ入れがちだけど、考えてみたら、やっぱりお札なら静かに入れるし、小銭も静かにそっと入れたい方が品が良いですね。確かに。😌
ここには大きなお鏡🪞があります。
鈴を鳴らそうとしたら、バッチリ自分が映し出されていました。
😳あ...私だ。あらめて気付かされました。🫣💦
祓い給え、清め給え
神(かむ)ながら守り給い、幸え給え
と3回唱えると言いますが、最近はそのようにしています。
天津祝詞は随分昔に暗記したことがあった。
でも、それより短い。
天津祝詞は何がきっかけで暗記したかというと、これもまた随分昔になる訳ですが、奈良の旅先にあった神社の朝の神事で聞いた大祓い祝詞が凄く良かったので、大祓い祝詞は暗記するには長かったから、短い天津祝詞の方を暗記してみようと思ったのでした。
神社も今はパワースポット、御朱印などでまた人が復活して来ている感じです。
離れていた神様も戻って来られていると聞きました。(youtubeにて)
神社の神様方は、人々が来なくなると帰ってしまうらしいのです。
眷属とかは残っていたりするそうですけど。
まあ、神社の神様というのも元々異星人らしいので宇宙に帰る場所があるから、求める人も少なければ無理していることもなく、やる事も他にお有りなのでしょうね。
人間が祀られていたりもありますけど。
私が、神社に行っても神様がいない気がして行かなくなったのが10年ぐらい前。
その頃神様が随分帰ってしまわれたと言います。神社関係に詳しい方のお話によると。
だけど、私が感じたその頃と一致するので、
ああ、そうだったのかとー。今あらためてそんな事を知らされる思いでいます。
自分が反応しなくなっているから、そんな自分自身にもガックリも来て、余計行く気が失せて興味すら無くなっていたんですよね。
だから、何かホッとしました。自分のせいばかりじゃなかったのだと。
だけど、コロナ禍と母の死などから、今は復活へとなりました。
ただ、
以前は有名な所に惹かれていて、近くのよく分からない神社とかは軽視していたように思う。
今は、そこが変わりました。
知っていようがいまいが、自分を担当する係は、氏神様が1番と言います。
だから、感謝の意を込めて、最近は以前より参拝に行くようになりました。
地域を守っていただきありがとうございますと。
いや。
自分は〇〇を信仰してるから関係ないとかあっても、そのままその人の意志を曲げることなく、見守りながら日本の神様はいらっしゃるのだと思う今日この頃です。日本に住んでいるとそういう構造があるんじゃないかと。そういう事を聞いたのもあって。
自分の中に神様がいる。そうではあっても色々な繋がりもありますしね。
こんな本も図書館で借りてます。
著者の桜井識子さんの本は書店でもよく見かけるので、まだ読んだ事がなかったから、借りてみました。
これは借りた中では2冊目になります。
桜井さんは神社仏閣、教会までパワースポットと呼ばれる所を尋ねていらっしゃる。
秋田の教会の涙を流すマリア像も。
カトリック教会も色々言われてはいるけど、私はカトリック信者の友達もいるし、プロテスタントよりそっち系の人達の方がむしろ信仰的にも?気が合ったりもするのが、何か自分でも不思議だったりで、だから、そんなマリア様の像も機会があったら見てみたいですね。
プロテスタント系では偶像崇拝と言われそうですけど。
プロテスタントは偶像崇拝になるのでイエス像やマリア像を否定してる訳ですが、だけど、それが行き過ぎて仏像や建物に危害を加える者も出て来たりがあったり。
それは僅かな一部の自称クリスチャンと言ってる人達であったとしても、その思想や信仰が行き過ぎたらそうなるという話で、時々プロテスタントと言ってる人達の中で過激な行為をする人達がいるのは、イエス・キリストの説いた愛とは程遠いと感じていたことも確かで、プロテスタント側もその辺はもっと考えても良いと思ったりもします。
ほとんどの人は日本の歴史もあるし、そこまでにはならない事ですが、だけど、聖書には偶像崇拝と何度も出て来ていたりで、牧師さんでも日本は偶像崇拝国家だからと言う方々がいる。当然かも知れないけど、だけど、仏像、彫像そのものがいけない訳じゃないし、アヌンナキは自分だけを神にしようとした、そこから偶像崇拝への否定も大きかった訳だから。
と、そんなことも思う。個人的な話ですけど。
なので、プレアデスからの話は、かなり納得出来るものになりました。アヌンナキが自分だけを神とせよと崇拝を強く求めた。ーヤハウェ。(旧約聖書)
自分の中に神がいるとイエス・キリストは言われた。(新約聖書)
イエスの言う神と旧約聖書の父という神は違うと、プレアデス関係では言っています。
旧約にあるABBAという父ではなく、源と言う言い方をイエス・キリストはしたとのことでした。
神社のお鏡🪞は自分を映す。
キリストの教えの方に近いと思います。
とにかくーアヌンナキ達が起こした弊害が今もねじ曲がって、色々影響してることを思わされます。
丁度神社に行かなくなった事から、したかった聖書部分の学びはプロテスタント教会でしたが、そこで一応出来たので、それは感謝でしたが。
昔クリスマスイブに誘われて行ったこともあった所だったので、そこが行ってみるには行き易かったし、講演会をたまたまやっていたから、それを見に行って、そこで聖書研究の勉強会に参加するようになったのでした。知ってる所の方が安心だったから。
そういう意味では上手く出来ているものだと振り返ってみると思います。
だから、神様の世界、宇宙の導きって、もっと大きな視野からあるんじゃないかと思うこと。
実は宗派なんて越えて存在してるから、その人に相応しい導きってあるんじゃないかと。
例えばカルトというものを通ったとしても、その分救いに気が付き易い場合もあるかも知れない。
元々源は一つで、大きな光だという。
人間の形という訳でもない。
根源にはジャッジはないと言います。
善悪がないという意味ではないけれど。
母が亡くなり、イエスキリストは信じてるけど、神社を訪れたい気持ちも復活して来た自分がありました。
こういう魂からの事って、教義に縛られない思いからあります。
だから、本の内容には興味も湧いた訳です。
神社、仏閣など訪ねたくなったら、行けばいい。
私は自然にそうしたかった。
桜井識子さんは、元々は介護のお仕事を長年されていたそうで、その間に色々訪ねた場所をブログに書いていたようでした。
その後本の出版の話があり、今はそちらを専門にとなられたらしいのですが。
アメブロをされていました。
↓
https://ameblo.jp/holypurewhite/
こちらはまた別で、
五斗美湖さんという方の本なんですが、
この本も図書館から。
図書館の本ばかりですが、以前買った本が溜まっていて、ちょっと自粛中。
図書館に行った時に目についた本を借りるのもやはり一つの方法だと思いました。
五斗美湖さんの場合は、以前添乗員をされていたことがあり、今その事が生かされてもいるようです。神社ツアーをされているそうです。
https://miko-hitorijyanaiyo.jimdofree.com/
ということで、今回はこんな話となってしまいました。
長かったのにここまで読んでいただいた方、ありがとうございました。💕
良い日々をお過ごしください。♫
追記:
こちら良かったです。
私には!⬇︎ ショート動画だから短いです
https://youtube.com/shorts/WynNF2yvY98?si=aVFDb3nGkVMXiGp2