東京蒲田RCイニシエーションスピーチ【人生は出逢いと感謝】

東京蒲田RC定例会で、イニシエーションスピーチの機会を頂きました。

とても歴史と格式のある国際団体であり、敷居が高いイメージがあるロータリークラブでこの様な機会を頂き、感謝申し上げます。
昨年東京青年会議所でお世話になった澁澤会長・先輩方にお声をかけて頂き入会をさせて頂きました。

大田区とご縁を頂き20年、地域に育てて頂いた感謝の気持ちでご恩返しが出来たらと願い、現在のギリシャレストランにおけるギリシャとの出逢い、都議会の活動に加えて、様々な地域活動でもお世話になって居ます、そこで、今一度、
もり愛の幼少期から、お話をさせて頂きます。

1977年横浜生まれ。祖父の家は横浜にありましたが、祖父は千葉の漁師町の出身で、
幼いころは、父の転勤で茨城へ波崎の漁師町で育ちました。

海と祭りと銭湯が大好き!で、現在一番大好きなものは、4歳のむすめです。

【人生は出逢いと感謝】
幼少期は、本が大好きな子どもで、幼稚園時代にはキュリー夫人の絵本の伝記を読んで
「ノーベル賞」をめざす。
小学校時代、兼高かおる世界の旅(再放送)に感動して、世界中を探検家を志す⇨ のちに、世界の多様性を伝えたいとレポーターを志します。

人生のモットーは、【今を最大限に楽しむ!】

中学時代はクラシックギター部、高校時代は朝は始発で体育祭応援団の練習でダンスを練習して、昼は天文部部長として太陽の黒点観測とピアノ部で練習し・放課後は美術部で油絵を描き・夜は時々学校のセキュリティーを切って、屋上に泊まり込んでで天文観測をする。

朝から晩まで、本当に学校が大好きで、塾にもいかないで放課後部室で勉強を教えて頂いて大学にも行かせてもらったので、先生との出逢いに本当に感謝していて、
「子ども達の夢と希望を育てる学校教育の充実に取り組んでいきたい」という、今の仕事の想いに繋がっています。

天文部で、山の山頂に寝袋をひいて顔だけ出してとにかく一晩中星空を眺めていると、
すごく寒いんですけど、自分と宇宙との境が分からなくなる間隔があって、2000年の時を超えて届いている天体の光を見ていると、
今、こうして同じ時代に同じ星に生まれて、
同じ時間をご一緒させて頂いている事は、すごい奇跡だと実感します。

自然と私【野生児の私はもののけ姫と呼ばれる】

大学時代は、『自然探索愛好会』の山に混じりてクレソンをかじりながら沢を上ったり、
休日には、とにかく寝袋とテントをもって、全国に出かけていました。


冬のスキー場で、スキーをせずに雪中キャンプという、過酷な我慢大会の様な合宿をしたり、
夏はラフティングで昼間は四万十川を下って、疲れたら川岸にテントを張ってキャンプして、自転車で北海道を半周したり、野草を天ぷらにして食べたり、早朝に漁船の方に取れたてのイカを沢山もらって、朝から肝といかさしが美味しかったことなど、本当に野生児でした。

学生時代は、バイトをしては、週末は自然に出かけ、夏休みなど長期休暇はフランスでホームスティしたり、

北の港町ブルターニュにホームスティし、リンゴのシードルとそば粉のクレープが美味しい田舎町だったので、ヒッチハイクをしたり、モンサンミッシェルに遠足に行ったり、世界遺産巡りをして、世界の多様性のすばらしさを伝える仕事がしたい。と、レポーターを志し、
⇨ 大学4年生の時、レポーターを目指してアナウンスアカデミーへ。

我が家の父は、「親の役目は義務教育までだ」という、厳しい教育方針でしたので、
成人式も、【成人式は20歳まで育ててくれた親に感謝する日】と言われ、それはその通りだ!と納得し、自分のバイト代でワンピースを買って出席しました。
本日は、その際に購入した成人式に出席したワンピースを着て参りました。

そういった、父だからこそ、自分の自立心だったり、へこたれない心を育ててもらったと感謝しています。

短期留学の試験に合格したことを伝えるも、「よくそんな金あるな」と厳しい一言を頂きましたので、週末はとにかくアルバイトして、
学生時代より、『所さんのディトナ』『ナイトライダー』等の雑誌、モータショー、ネットCM等のMCとして活動し、その経験が、今の活動にもとても役立っていると感じます。

2000年大学卒業【 超就職氷河期!】

バブル崩壊後の超就職氷河期 当時受けたテレビ局は3万人受けて合格はたった1人の世界でした。

4大を出ても派遣社員、非正規で働く友人も多い中、学生時代のバイト仲間から羽田空港の派遣の仕事を紹介される。☚出逢いに感謝!

【羽田空港で派遣販売員として大田区に通う】
当時は、第一ターミナルのみ。国際ターミナルは地方空港の様な小ささで、第2ターミナルの完成の頃まで羽田空港に通っていました。

【海が好き!】☚出逢いに感謝
おじいちゃんの生まれが千葉・立山の漁師町の出身で、幼少期は父の出張で茨城県の漁師町、
育ちは横浜でハマッコとして育ったので、今も海が大好きです!

20代の頃は、初代横浜開港祭親善大使 を拝命して、横浜の港のすばらしさをPRさせて頂きました。そこでの出逢いから、海上保安庁第3管区のボランティアチームとして活動させて頂き、NPO未来に残そう青い海のメンバーとして、海の環境保全活動を続けています。

大田区羽田の漁師町の風情が残る街並みが大好きで、
大田区には素晴らしい海があるのに、もっと大田区民や都民が、海の楽しさを日頃から感じて欲しい!と、一昨年は、東京都の港湾審議会の委員として、また舟運活性化部会で東京湾での水辺の活用と、

都民や区民が、日常的に、舟を活用して、羽田から都内観光に参加できる舟運事業や、東京湾でマリンスポーツの振興など、海洋国家日本の首都・水の都東京として、もっと、海をたのしめる街づくりに取り組んでいます♪

【もり愛はなぜ政治家になったか?】☚出逢いに感謝!

ナレーターの先輩から、知り合いが選挙の鶯を探しているから一緒にやらないか?
と誘われ、大田区の議員さんの選挙スタッフとなる。
後に、私の政治の父である、岡崎都議会議員さん☚出逢いに感謝 なのですが、

政治に全く、縁のなかった私にとって、選挙のお手伝いはとても面白い体験でした。

政治への関心は、幼少期から食事中はニュースを見ると決まっていたので、自然と幼いころから政治に関心のある子どもでした。

〇小学生の時のチェルノブイリ事故の際は、私が11歳の頃だったのですが
「なぜ、小学6年生でも危険性が分かるのに、大人は原発をやめないのか」という学校新聞
『今の文明どうですか「文明堂新聞」』と名付けて学校新聞を作ったり、

〇高校時代は、フランスのムルロア環礁での核実験に、仲の良い天文部の仲間たちと、小さなフランス製品不買運動を呼びかけたり、地学室でお弁当を食べている時の話題は、結構政治の話題が多く、幼少期から政治に自然と政治に関心の高い女子高生でした。

その事から、環境問題に関心を持つようになり、
選挙になると、ウグイスのお手伝いをさせて頂き様々な国会議員が応援弁士としてやってくるのですが、

ある時、応援弁士が交通機関の遅れで到着が遅れ、テープを流している様に言われたのですが、当時、就職氷河期の中で、年金問題の不祥事などもあり、
「テープ回しているだけなら、マイクでしゃべっていていいですか?」と、

「こんな年金制度じゃ、私達若者が将来に希望を持てないんです!非正規雇用で時間を切り売りして、社会保障も十分ではない、そんな国に希望が持てないんです!」と
大森駅でしゃべっている所に、当時の党の副代表が来て
「君面白いから、うちの事務所で秘書をしないか」とお声をかけて頂きました。
そのご縁で、☚出逢いに感謝

衆議院会館で、私設秘書として働く事となり、
「区議会議員選挙に出たらどうか?」と、声をかけて頂きました。

当時27歳、親は大反対!
自身の実家は、エンジニアの父と専業主婦の母という、高度経済成長期を支えてきた典型的な日本の家庭で、母は25歳で私を生んでくれたので、そろそろ適齢期の娘が、政治という男性の社会に飛び込むなんてとんでもない!のんびり、おっとりしている私には向かない。と、とても心配されました。

私自身も、政治のお手伝いをする中で、
いつか、社会経験を積んで40代くらいになったら
という想いがありましたが、当時の岡崎さんに

「少しでも地域の役に立ちたいという想いがあるんだったら、人生は一生勉強だからやってみなさい。」と、背中を押して頂きました。

今でも、「政治家は、机の下を拭く人間でありなさい。決して偉ぶってはいけないよ。目に見えるところだけでもいけない。」という教えが、原点にあると感じています。

制度と制度のはざまで困っているところに、光を差し伸べ、ひとりの陳情解決に終えるのではなく、政策にする事が議会の役割である。との想いで、今も仕事を続けています。

29歳で当時大田区議会で最年少当選をさせて頂き、以降区議3期、都議1期を務めさせて頂いています。

そうして、婚期を逃したもり愛。仕事にやりがいを感じながら、一生独身でもいい!
仕事にうちこもう!と、全く男っ気がない人生を送って参りましたが、

(ギリシャとの出逢い出逢いに感謝)

その時、【蒲田行進曲まつり】で、ギリシャレストランで店長を務めていた大田クルーのサットンと知り合います。

大田区出身のヒップホップグループ「大田クルー」を知らなかったのですが、サットンが司会を務め、私が蒲田イケメンコンテストの審査員として参加させて頂いたご縁でした。

つぎに、【下町ボブスレー応援団】として六本木のギリシャレストランスピローズで再開
☚出逢いに感謝!

当時、下町ボブスレーのプロジェクトリーダーの細貝さんが経営するギリシャレストランで、下町ボブスレーの会合が行われた事から

名刺に、好きなもの海と祭りと銭湯!と
共通の趣味である自転車の話題で意気投合し、
食事に行く事になり、初めて食事に行った際

「新婚旅行はギリシャに行きましょう」という言葉に「はい」と答え初デートで結婚を決意します。

しかし、ギリシャレストランの店長の口癖だったらしいことが後に判明します。

娘が生まれた事をきっかけに、
【スピローズ蒲田】として独立

【ギリシャの魅力】地中海の青い海と青い空、そして白い建物とブーゲンビリアのとても美しい国です。

ギリシャ料理は、世界で最もポピュラーな料理の一つで、カナダ・オーストラリア・アメリカ・ヨーロッパの都市に行くと、一つの街にいくつものギリシャ料理があり、特にカナダのトロントには「ギリシャ街」があります。旅慣れたツーリストの間では、「知らない土地で職に迷ったらギリシャ料理」と云われるほど、癖も無く食べやすい事で有名です。
日本では数少ないギリシャ料理店ですが、
世界無形文化財にも選ばれた、世界を代表する食文化です。

ココだけの話、オイルもチーズもワインも、ギリシャから取り寄せているので、とても原価が高くて、六本木でお店をやって居た頃は、安倍総理や辰巳達郎さんも足を運び単価も高かったのですが、

蒲田に移転し蒲田価格で、リーズナブルにしているので、ぜひ、多くの方にギリシャ料理のおいしさを知って頂き、コロナが落ち着いたら、オリンピック発祥の地でもある、ギリシャ、ぜひ蒲田のギリシャに足を運んで頂けたら嬉しいです♪ 

おとな&こども・ほっとネット】
今、コロナ禍で、子どもの貧困や、児童虐待の数は過去最高となり、子育て家庭の孤立が心配をされます。

娘が生れて、産後のお母さんが、家から出られない中で、本当に一日旦那さん以外の大人と話していない。という事を私自身経験し、

授乳で3ヶ月殆ど寝られない日々とか、子育てママの大変さを実感する中で、はすぬまの子ども食堂だんだんさんに、生後1か月過ぎて伺った際に、
「抱っこしていてあげるから食べなさい」と出して頂いた温かいご飯が、本当に心にしみて、【子ども食堂】の大切さを実感しました。
これまで子ども食堂への財政的な支援は無かったのですが、都議会で支援を訴え、東京都で夜参加されました。今、都議会でも、こどもの食の支援に取り組んでいます。

地域の子ども達と子育て家族の笑顔を繋ぎたい。

という想いで、3年前から、ギリシャレストランの定休日の月曜日に、子ども食堂事業を開始。

今はコロナ禍で、密にならないようにと第3土曜日に文化の森で開催しています。
ぜひ、おとな&こども・ほっとネットのページから、今は感染防止と食品ロス対策として、完全予約制で開催していますので、ぜひお申込みいただけたら嬉しいです。

田園調布ロータリーさんなど、RCとしても、子ども食堂の支援事業に取り組んでおり、RCが連携して地域の子ども達の健やかな成長を支える取り組みも期待されていると感じます。

昨年は、蒲田で3歳のお子さんが亡くなる悲しい事件がありましたが、お母さんも、SOSを発する事が出来ない被害者だったのではないかと思います。

今、国でも「こども庁」設置に向けた声がありますが、子どもの貧困の背景にある、ひとり親家庭の貧困や非正規雇用の課題に、

東京都議会においても、厚生委員会理事・厚生部会長を拝命し、コロナ禍で、再び就職氷河期世代を生まない為の、東京版にユーディール、2万人規模の雇用創出を都知事に訴え
また、昨年は全国的に出生率が減少しており、コロナ禍における出産への財政的支援を強く要望して、「コロナに負けるな出産応援事業」として子ども一人10万円規模の予算を実現しました。

国を変える事は難しくても、
東京から変えていく。

全ての子ども達の命が尊ばれ、夢と希望をもって未来を担う子ども達が健やかに育つよう、子ども達の笑顔を守っていきたい。
誰もが、自分らしく生きられる、一人ひとりが輝くまちづくりに、これからも携わっていきたいです。

その想いで、東京蒲田RCのメンバーとして、社会奉仕活動に取り組んで参りたいと考えますので、
ご指導よろしくお願いします。

本日は、貴重な機会を誠にありがとうございました。