【矢口のわたし水辺の学校 開校記念式】
子ども達が水辺の自然や動植物に親しみ、水辺を楽しみながら育つ環境を守り育て次世代に伝えたい!
現在多摩川には21の水辺の楽校が活動中です!その1番新しい水辺の学校として、矢口の開校式が行われ、多くの地元の町会自治会の皆様、国交省京浜河川事務局の方もいらして、多摩川のむかしを振り返り、体験談や歴史文化、水辺の動植物についてお話し頂きました。
これからの護岸整備についても、治水の観点からの水防事業はもちろん重要ですが、
より子ども達が水辺に親しめる親水護岸整備に取り組んで参りたいです!

古市町会 小宮前会長より
『やぐち多摩川むかし体験談』と題し講話を頂きました。
現在88歳、生まれた当時の多摩川は、川の水も綺麗で、海水浴ならぬ、川にも安全に降りていくことができた。
鯉、フナ、マルタ、ハゼ、ハヤヤマメ、ダボハゼ、海老、ウナギ、鮎、しじみ

戦前は、とても川が綺麗だった。
戦後、高度成長期で、洗濯機が家庭に普及するようになり、川が急激に汚れた。

ヘドロから、ポコポコメタンガスが発生し、豊かだった魚が姿を消し死に絶えた。町工場の機会が錆びるほどだった。

カレイ、クロ鯛、白魚まで上がってくる程綺麗だった。

当時のつり竿は、竹一本のつり竿。

今、また魚が帰ってきている。
ボラの子どもーメダカーおぼこーイナコーボラートド

護岸、川底は、水苔で汚れていて

《矢口の渡し》
対岸には、加瀬山が見えた。

橋がないので、渡し舟で渡った。
幅は1mちょっとと、長さは約5m
乗船人数は、5、6人。30銭。

《多摩川小学校のむかし》
日本内燃機という軍事工場が、アルスのあたりにあり、職員寮だったが4/15の大空襲で焼け野原になった。その後、畑として使われた。
埋め立てて、近隣の方が土地を提供して校庭も確保し、今の多摩川小学校が出来た。

・大田区立郷土博物館学芸員の田島大良さんより『やぐち多摩川むかし話』
昭和3年川瀬巴水の絵ー多摩川から砂利を掘削する砂利船

矢口町、今泉町、古市
江戸時代の「古市場村」
・江戸時代後期以前より、市が開かれていた。
村には76軒あり、そのうち30軒は多摩川度渡って→つまり、1つの村の中に川が流れていた。

「古市場村」に関する文化財「庚申供養塔」
・大雨等により、多摩川は氾濫するたびに何度も流れを変える「あばれ川」であった。

約650年前 新田神社のすぐ裏に、川の流れがあった。
「新田大明神絵巻」の中にも、神社のすぐ裏を流れる多摩川が描かれている。

多摩川の水は、魚や農作物等の恵みを与える一方、自然災害をもたらし恐れられる存在でもあった。

『多摩川の歴史』国土交通省 京浜河川事務所所長より
山梨県のカサトリ山が源流
年間約1800万人が多摩川を利用している。

・川の石に玉石が多く「玉川」
・山梨県丹波川→たば川と諸説ある。

今から300万年前の万葉集にも、すでに
「たまがわ」は登場している。歴史ある川

他の川に比べ、勾配が急で流れが早い。
明治時代には、大きな洪水もあった。

多摩川には、現在水辺をフィールドに、子ども達が自然体験活動を通じて水辺を楽しんで学ぶ【水辺の楽校】平成8年からスタートし21校で活動中である。

鵜の木水辺の学校もお近くでは活動中。