おふくろさんが永眠しました。
90歳でした。
「生んでくれてありがとう。」
10月に身体が弱った、それまでは、矍鑠として布遊び工房の離れ屋に行っては、一日中着物の端切れからいろいろなものをつくっていた。...
私の友人たちにプレゼントした炭入りシューズキーパーもその一つ。
友人に渡したら喜んでくれたよというと「そうかい、そうかい」と縫物の手を休めずに喜んでくれた。
いよいよとなって新幹線で駆けつけ、感謝の言葉を最後に掛けると「うんうん」とうなづいてくれた。
おふくろさんは、今年に入って『90歳のおばあちゃんの一生』という回顧録を書きあげた。
改めて読むとすごい時代を生き抜いてきたなぁ~と思った。
昭和一桁に生まれ、激動の昭和と平成を生きた人だった。
福島のお手伝いさんのいるお嬢として生まれ、戦争の足音で商売がダメになり、新天地満州に渡り、満州鉄道の技官となった父のもとで、レンガ造りの家でお手伝いさんや料理人もいた生活をした。
今じゃ考えられない暮らしの中で、女学校を卒業した。
しかし、太平洋戦争の敗戦ですべてを失い、とにかく本土に帰りたいとの一心で、道の屍に心で合掌しながらなんとか船に乗り帰れた。置き去りにされた人たちも同級生もいっぱいいたと言っていた。
本土に帰ってきても、全てが焼け野原、六畳一間に間借りして、そこで五人が暮らした。
布団も三つだけ、身を寄せ合って寒さをしのいだ。戦後は、これでもまだいい方だったといった。
何とかこの生活から脱出したい、なんとか生き抜こうと、当時は珍しかった立体裁断を女学校の教えを思い出しながら始めた。この時、朝ドラで有名になった暮らしの手帳や婦人画報が創刊され参考になったと言っていた。
高校教師のおやじと見合い結婚した。後で聞いたら、フィリピン・台湾の学徒出陣で、足にグラマンの銃撃痕とマラリアが完治していなかったおやじの第一印象は「痩せてひょろひょろとして好みじゃなかった」と笑った。
でも、結婚すれば六畳間から脱出できると思い、すぐに結婚した。
それから、姉、兄、そして、一生東京で何の仕事をしているかわからなかった私と、三人の子供を、洋裁で育て上げた。
みんな大学にまで行かせてくれた。
もちろんおやじは高校の先生の公務員で安定した収入があったけど、「お父さんより私の方が稼いていたよ」と内緒で教えてくれて笑っていた。
親父が50代で亡くなり、それからは、洋裁と趣味だった書道教室の師範となり二足の草鞋で三人兄弟を育て上げた。
大学に行った私が、お金がピンチになると10円玉で公衆電話から電話した。
するとだいたい洋裁を習いに来ていた近所の生徒さんが電話に出た。
だから「お金がピンチ」とは言えなく「おふくろ元気ですか?」と言ったとたんに10円分の電話が切れた。
でも次の日にお金が振り込まれていた。
後で知った「守男からの電話は、聞かなくてもわかるからね」と。
実家の離れ屋を改装して「内村布遊び工房」を創った。
多くの生徒さんが集まってきて、ワイワイと好きなことをして晩年を過ごし、なんと87歳米寿を記念して福島市のコラッセ福島という多目的会場を借りて、内村布遊び工房の個展を開催した。
もちろん、内村家全員集合の号令がかかり、私も手伝いにはせ参じた。※この模様はFBの前の方にアップしています。
個展会場は連日いっぱいとなり、会場の方が「始まって以来の集客でした」と驚いていた。
新聞にも載った。その時の写真が下の写真です。
おふくろさんにはいつも感謝です。本当に感謝です。
親父と兄貴と孫、そして、先祖が迎えに来たかな。
「生んでくれてありがとう」。 合掌。