「君たちはどう生きるか」をまた観た③ | ラビブロ

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株式会社プロフェッショナル・ラビット代表取締役、公認会計士/税理士の森浩彰です。会計、税務の記事を中心に自分の趣味のこと等を書いていきたいと思います。

②から続く

 

 

 

眞人は、強く、正しく、真っ直ぐに生きようとします。しかし、そんな完璧な人間がいるはずはありません。疎開先の学校でのイジメや、継母の裏切り、ここでちょっと解説を加えると母親が女になるというのはそれだけで子供にとっては裏切りなのです、それに、父親の無神経極まりない独善など、立て続けに嫌な目に遭うと、やけを起こして自ら頭に傷をつけ、塞ぎ込んだりします。

それでも、継母が塔に捕らえられると、タイトルにもなっている小説を読んで感銘を受け、勇気を振り絞って救出に向かいます。

これより先は単なるあらすじの記述になってしまうので省略しますが、異世界であるところの塔の中で、奇妙な体験を味わったり、残酷な出来事を目の当たりにしたり、生と死を学んだりして、最後は元の世界に戻ってきます。

そうして、世界に対する自らの態度を少しだけ変化させます。

実母への執着を少しだけ捨て、継母を母親として少しだけ受け入れ、父とも少しだけ和解します。この先、こういうことを繰り返し、眞人は大人になってゆくのでしょう。

 

嘘をつくこともある、ずるいこともしてしまう、逃げ出すこともある、それでも、強く、真っ直ぐに生きようとする、それが、眞人です。

言い換えるならば、それが宮崎駿という人の自己評価なのです。

人の中には弱い自分と、それに抗う自分とか存在しています。弱い自分を否定するのではなく、それを受け入れ、飼い慣らし、そうでない自分であり続けようとすることが人間である。

それが宮崎駿の生き方なのでしょう。

実に大変な生き方だなあと、わたしなどは大いに恐れ入ってしまいます。

無論、ご本人の性格、当時の時代の風潮などもあるでしょうが、よくこんな生き方を選択し、実行してきたものだと感心します。

そうなると、次に気になるのは、眞人が、即ち宮崎駿が、なぜこんな生き方を選択したのかということです。

もちろん、これもわたしの完全な推測です。

推測なのですが、それなりに根拠もあります。

というのも、この映画にもそれが現れているし、過去の作品からもそのにおいを嗅ぎ取ることができるからです。

それでは、なぜ、眞人は、宮崎駿は清く正しく、生きようとしたのでしょうか。

たぶんそれは母親に褒めてもらいたいからです。

死んでしまった母親に顔向けできないような生き方はしたくないからです。

恐らく宮崎駿は、母親に褒めて貰いたい人なのではないかと思うのです。

ひたむきに映画を作り続け、映画で人を動かせると信じ、安易な娯楽には走らず、思いのこもった作品を生み出してきたのは、お母さんに褒めて欲しい、という幼少期の原体験が影響しているのではないかと勘ぐってしまうのです。

宮崎駿は、そんな赤裸々な告白さえ、この映画でしているのです。

 

高貴に生きようとする、それだけで、わたしにとっては十分高貴な人なのですが、こんな生き方をできる人はそうそういません。

子供というものは案外ピュアなものですから、もしかすると子供のときには強く真っ直ぐに生きようなどと考えたりもするかもしれませんが、大人になるにつれ、ずるいことしたり、嘘をついたり、楽をしようとしたり、それを成長と称して開き直り、俗っぽくて救いようのにない、それこそ眞人の父親のような人間になってしまうものです。

しかし、宮崎駿は、もう八十を過ぎた年齢になるまでずっと、尊く生きようとし続けた人なのです。

勿論、直接お目にかかったことはないですから、知っている人からしたらそんな人間じゃないよ、なんて言われるかもしれませんが、作品上であっても、自分は高潔に生きるのだと宣言するだけで、わたしにとっては十分に尊いことなのです。

「君たちはどう生きるか」からは、宮崎駿のそんな声がひしひしと伝わってきます。

他人からどう思われようと、批判されようと、理解者がいなくとも、自分は強く、真っ直ぐに生きたい。綺麗ごとだとしても、そういう生き方を貫きたい。

そんな声が聞こえてくるのです。

だから、わたしは、この作品をとても愛おしく感じるのです。

ここでようやく最初の問いに対する答えを提示することができました。

なぜこの映画を愛おしく感じるか、それは、監督である宮崎駿の生き方、高潔であり続けようとするその生き方、真っ直ぐで孤独で不器用な、その生き方が見え隠れするからです。

決して真似できない困難な生き方を選択し、それを実行し続けてきた人の覚悟が、そのわけのわからない映画の端々から伝わってくるからです。

 

残念ながらわたしはもう中年ですので、これまでの生き方を変えることはできません。

恐らくこのまま生きて、このまま死んでいくのだと思います。

けれども、この作品のメッセージは、国内か、海外か、少年か、少女か、あるいは、いまではなく未来か、どこかにいる、強く、賢く、そして不幸な誰かに伝わっていることでしょう。