「米騒動」という言葉のパッと見の印象は、「お米」に「騒動」ですから、すこし言葉のイメージが一般的な日常語彙なものですから

なんとなく大した事件じゃないんじゃないの?

ちょっとした揉め事にしか過ぎないんじゃないの?と思ってしまいますが

 

これまで見てきた歴史的経緯による食料危機のことです。

 

江戸時代の天保の大飢饉という食料危機の非常事態に、大阪奉行は大阪庶民の窮状を顧みず米を江戸へ廻送し、

そこでも、利を求めてさらに米を買い占めた豪商に対する民衆の怒りから、

それらを見るにみかねた、大阪町奉行の一役人であった大塩平八郎が武装蜂起した「大塩平八郎の乱」。

半日で鎮圧されてしまいましたが、それでも江戸時代の数少ないクーデターのひとつとして大塩平八郎の乱と「乱」がついています。

 

大正時代の「米騒動」は、騒動ですが、二ヶ月以上続き、

全国的な広がりを見せ、完全収束まで半年もかかっています。

本当は、それまでの明治政府や日本の屋台骨を軋ませる、社会を変えるような、大きな動きだったと考えるべきものです。

 

▲大阪市中の五分の一を焼いてしまったという大塩平八郎の乱

 

「米騒動」は、一般には次のようにいわれております。

大正7年(1918年)米価格の急騰によって起きた日本各地の暴動。

同年7月に富山県魚津市の沖仲仕の女達が、米問屋や資家が米の移送の中止を求めて声を上げたことをきっかけとする。

 

 

魚の豊漁で魚価が下落しているところにもってきて、米の値段が高騰しました。

魚を売って米を買おうにも、米が買えなくなってしまった。

にも関わらず、富山の米を値段が上がっている余所に売ろうと港から積み出している、なんてことだ!と

その状況下でも商社はさらなる投機的買い占めと売り惜しみにはやっている、なんてやつらだ!と

 

当時の米価の値動きです。

1912年から1921年の10年の幅でみると、20円から30円の中で推移しているように見えますが、米騒動直前で見ると

 

 

前年の大正6年から、15円から4ヶ月ごとに、20円、25円、と上がり続け、30円、40円と、

2.5倍にまで上がっています。

 

1石(いっこく)というのは、10斗(じゅっと)で、100升(ひゃくしょう)で、1000号(せんごう)です。

1日1升のご飯を食べるなら、3ヶ月分くらいの量ですね。

現代のお金に直すと、お米で消費者売価10キロ5000円だったものが、一気に1万3000円近くに上がるイメージ。

 

 

もっと分かりやすく、実感をともなうように米の値段上昇の影響を説明すると、

牛丼1杯は350円くらいだと思いますが、その原価率は40%くらいと言われております。

 

業者価格で牛肉=70円、玉ネギ=5円、タレ=20円、ご飯200グラム=40円 合計145円、

そこに人件費や店舗の水道光熱費もろもろが乗って350円になるものが、ご飯のところで100円に上がる。

牛丼一杯が原価で225円になる。すると、お店で出す牛丼の値段は560円に上がるということです。

 

350円だったものが3~4ヶ月で560円になる。

同様に値上がりすると、600円のカレーライスでは960円になります。

 

 

現実には、価格上昇の期間があまりに急激で、米価につられて他の食材も上昇していきますので、

同様のことが今起きたら、おそらく牛丼一杯は800円くらいに、いやそれ以上に上がってしまうでしょう。

 

 

社会問題として富山県魚津の魚商の女将さんらが、声を上げたことを「富山の女一揆」として全国に報道されました。

 

 

同様に各地で、次々と騒動は広がっていきます。

 

なぜ、米騒動がここまでの広がりを見せたのでしょうか

 

ひとつには、話題の中心が、主食の米であったこと、

また、当時の新聞の見出しにあるように、

「二十日未明同海岸に於いて女房共四十六人集合し役場へ押し寄せんとせしを」とか、
「汽船伊吹丸寄港に際し細民婦女の一揆が起こり狼煙を上げたる」とか、

 

一般の家庭の婦女子が、集団で訴えを起こすという、インパクト。

 

当時はまだ、女性参政権のない時代です、つまり女性の社会参加という意味では相当にハードルが高かった。

何かの運動であるとか、意見であるとか、声を上げようにも

今の時代感覚で警察や政府が弾圧というよりもむしろ、家庭内で夫や父親や兄に猛反対されるのがオチ。

そんな状況で、お母さん、お姉さん、お婆ちゃんが、はっきりとモノを言ったからです。

 

「米、買い占めるな!」

「メシ喰わせろ!」と

 

ちなみに、我が国で女性に参政権が得られたのは太平洋戦争後の1945年です。

実際に最初に女性が選挙に投票に出向いたのは1946年4月10日の衆議院選挙からです。

まだですね、70年ほどしか経過していないんですよ。

先人たちの大変な努力と犠牲の上で、今の普通選挙権があるのですから、

どうか皆さん、めんどくさいとか、やさぐれたり、現状を皮肉り、甘えて悪ぶってないで選挙行きましょう。

 

「米、買い占めるな!」

「米、余所に持ってくな!」

 

 

を掲げたご婦人方でしたが、暴徒化することもなく、200名弱の町民が集結し、

米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、販売するよう嘆願した。

その結果、米の移出を実力行使で阻止し、

当時1升40銭から50銭の相場だった米を35銭で販売させることにいったんは成功します。

 

が、米価が急騰しているのは富山県だけの話ではなく、日本全土の問題です。

米価は下がるどころか、さらなる上昇と混乱を生んでいきました。

同時に、この騒動は全国に波及し、暴動と化していきました。

 

そのような時期に実行に移されたのが、シベリア出兵です。

 

▲ シベリア出兵に参加した、アメリカ カナダ イギリス 中国 イタリア チェコ 日本 各兵士

 

この各国そろっての記念写真のように、連合国が合同で参加しました。

 

このシベリア出兵が後世大変な愚策として歴史にガッチリと残るはずだったのですが、むしろちゃんと反省すべき問題だったのですが、、

なぜかこの一大失政を語り継ぐことなく、ちゃんと教えないで、キチンと反省しないで、現代に至っているという問題です。

 

現代の前に、まずは昭和初期にさらなる大失敗である満州事変や太平洋戦争へとつながる大本でもあるのですけどね。

 

なんで、日本がこの時期にシベリアなんかに行かなきゃいけなかったのか?

国内が大変なことになっているのに!って思いますよね。

 

それはですね、第一次世界大戦と関係があります。

 

えっ?でも第一次世界大戦は、戦場はヨーロッパ中心で、日本はしぶしぶ海軍を送ったけど、

マルタ島とかで、地中海の守護神とかいわれて、Uボートと対決してイギリスとかに感謝されてたんじゃなかったっけ?

ということでしたよね。

 

第一次対戦はもともと、この地図の緑色の同盟国軍と橙色の連合国軍の国々に分かれた戦争でした。

 

緑色部分ドイツ、オーストリア、ハンガリー帝国、ボスニア、ここに、黄色の部分からトルコとブルガリアが付きました。

それを東西から挟撃するように、ロシア、フランス、イギリス、セルビアという布陣でしたが・・・

 

 

それが!ロシア革命により、戦況のバランスが崩れて、こうなりました。

 

東側の大駒であるロシアが、勝手にドイツを講和して、講和どころかロシアじゃなくなって、

「ボリシェビキ(多数派)」という名のグループの人たちが、ロシア帝国の首都ペトログラードを占領してしまい、

「ソビエト(評議会)」に国家権力を移譲するという内乱状態になってしまったのです。

 

 

結果として、ドイツ、オーストリア、ハンガリー帝国軍は、東側が停戦したので、

戦力を西側に集中させて攻めてきたので大苦戦となりました。

 

 

なので、連合国側とすれば、もう一回、ドイツに東側を意識させるという意味でも、

また「多数派(ボリシェビキ)」とかいう人達の政権をこれ以上のさばらさないためにも、

手の空いてる人達で、ロシアの反対側を攻めてくれ、と言い出したのです。

 

日本クン、君、暇やろ?とイギリスとフランスに言われてしまいました。

 

ええっ?!って感じですよね。

 

いやあ、先輩、それ、ちょっとキツイっすわあっ、、て感じです。

 

地図見てもこんなんですから

そんな・・ここに行ったところで、戦局に影響あるんでしょうか?という感じです。

 

 

なので、連合国側は大義名分も考えだしました。

それは、ロシアに囚われとなっている「チェコ軍捕囚の救出」というものです。

 

しかも、このチェコ軍は3万人近くもロシアにいて、ドイツオーストリアハンガリー帝国からチェコスロバキアの独立のために連合国側に脱出する。

そのときに、シベリアを経由してウラジオストックに移動することが決まっていました。

 

だから、日本とアメリカでウラジオストックにまでチェコ軍を助けに行ってくれないか?というものです。

同時に、「多数派(ボリシェビキ)」という人達を軽くちょっと、軍隊出して脅して、抑え込んでくれないか?というものです。

 

結果としては、この動きが「多数派(ボリシェビキ)」の首魁ウラジミール・レーニンにバれて、

これ、俺らの革命に対する干渉じゃないのか?と疑われることになり、

 

世界中から俺等、攻められるんちゃうん?!と疑心暗鬼になり、

「多数派(ボリシェビキ)」は、世界中に仲間を増やさなきゃならん、と考えだし、

「コミンテルン」というものを真剣に考えだすことになります。

 

コミンテルンっていうのはロシア語で「カムニスチーチェスキイ・インテルナツィアナール」

英語ではCommunist Internationalの略です。日本語では「共産主義の世界組織」です。

 

このシベリア出兵に日本国内は、なんでヨーロッパの事情にひきづられんだよ!とか賛否両論あったのですが、、、

反対した人もいたのですが、、、消極的におざなりにやっとこう、、と言った人もたくさんいたのですが、、、

 

結果、積極推進派が多勢を占め、全力で参加してしまいました。

 

ウラジオストックには、アメリカと共同歩調で8000人づつ同数でいこうね、と約束していたにもかかわらず、

日本は単独で勝手に、ザッザッザッザと、3万7000人も増員してしまいました。

 

 

後に、「なに一つ国家に利益をも齎すことのなかった外交上まれにみる失政の歴史である」といわれたシベリア出兵

この無益な闘いかに参加から撤退まで5年もかかりました。

5年は太平洋戦争と同じ長さです。

 

⑧につづく