昨日、観測史上初、東京都で気温が40度を超えました。

今年は6月中に梅雨明けするという異常事態です。

 

平年の印象では、梅雨明けは夏休みの始まる前、7月中盤ではなかったでしょうか?

そこから二週間くらいの8月初旬までがいわゆる「夏」で、お盆には涼しくなり夏が終わる。

我々のように瀬戸内沿岸で少年時代を過ごした者にとりましては、

お盆前に「海にクラゲが出るようになったら海に入ってはダメ」で、夏の終わりを意味します。

 

今年は、6月から連日30度を超える猛暑が、すでに1ヶ月近くも経過したうえで、平年の夏が始まる印象です。

 

その夏前に、私の故郷である岡山県や西日本全体で、未曾有の事態が起こりました。

連日のニュースでもその被害の甚大さが報道されていますが、大雨による河川の決壊です。

被害に遭われた皆さまには、心よりお見舞い申し上げます。

今なお、災害復旧の途上であります、酷暑の中での作業で健康を害したりなさいませんように

 

瀬戸内海沿岸は、冬に大雪が降ることもなく、台風の被害も少なく、地震も少ない。

自然災害といえば、夏の日照り、水不足くらいでは?というイメージがありました。

 

決壊した小田川は私の実家の前も流れておりまして、泳ぐほどの水深はなく、子供の頃には魚釣りなどもしていたような川です。

普段は流量の川幅100メートルにも満たない川ですが、あそこまでの災害をなすとは、

これまでに経験したことのない雨量であったことがわかります。

 

しかしながら、よくよく考えてみれば、

日本という国土全体が大陸プレートの境目に位置し、地震多発国、火山国、島国

峻険な山々の地形的シワやヒダのような谷間を、流れる狭く急な河川、少ない平野

そこに、モンスーン気候特有の高温多雨、台風、大雪、大風、、、

そのような大変厳しい自然環境、と同時に水源が豊富であり高温は植物を繁茂させ、

昆虫を始めとする小動物が多数棲息し、寒流と暖流のぶつかり合うことで豊富な海洋資源にも恵まれ、

自然の厳しさと豊かさを常時感じさせる国柄です。

 

 

そのような太古から続く歴史が、自然への畏怖にもとづく文化を発展させたと同時に、人が生きるために

自然環境を人の住みやすいカタチに手なずけてきた治水と護岸の土木建築の歴史でもあります。

リンク:田舎の街や集落はなんでこんなに分散してるのだろう、

リンク:『宝暦治水伝 波闘』 みなもと太郎

 

その結果として出来た田畑が、現在の日本の風土や景観をつくりあげていますが、その実は飢饉と災害との戦いの歴史です。

 

そのような利用可能な国土の創造と維持管理によって出来た我が国ですが、

歴史的に日本の人口の推移ですが、記録や統計にのぼらない部分があるとしても、ざっと次のようです。

 

平安時代     500万人

鎌倉時代     700万人

戦国時代    1200万人

江戸時代初期 1800万人

江戸時代中期 3000万人

幕末明治時代 3200万人

1900年    4000万人

1920年    5600万人

1930年    6500万人

1940年    7200万人

 

まず、江戸時代に入って社会が安定してくるとともに人口は増えますが、

明治後期から大正・昭和にかけて人口は、それまでの倍に増えています。

 

 

そのときの増え方の地域的な違いを検討したグラフもあります。

このグラフにおける南関東というのは東京のことであり、近畿というのは大阪ですね。

つまり、大正時代から大都市に人口が集中し始め、昭和に入って大戦中に大阪を抜いて東京に一極集中したということです。

都心一極集中は国家総動員法の名残

 

農村部の労働力が減り、都市に労働者が集中し始めたということです。

その結果、米を生産するはずの地方から人が減り、米を消費する都市部に人が増えていきました。

増やす方が減り、減らす方が増えるわけ、ですから影響はダブルで効いてきますよね。

 

 

江戸時代までは、人口3000万人の日本の米の自給率は100%でした。

明治に入ってもしばらくは自給率100%でしたが、明治20年過ぎてからの急激な人口増加で4000万人超えたあたりから、

実は、米の輸入が始まっています。

当時の主な輸入先はベトナムとミャンマーです。

 

 

明治から大正にかけて、日本の人口はさらに増え続け、5000万人、6000万人と増えていきます。

ほんの2~30数年で倍近く伸びていますが、耕作地はそんな勢いでは増えていきません。

むしろ、平地になる田畑は減っていく、工業用地や道路、鉄道などのインフラに転用されていきます。

 

この、米の需要が爆発的に伸び始めた頃、第一次大戦に日本は直接戦場に関わることもなく連合国側ということもあり、好景気に沸きました。同時に、工業生産が伸び対外貿易も増大し、成金といわれるにわか資産家も登場しています。

社会の教科書に載っていた「どうだ 明るくなったろう」の絵は覚えてらっしゃるでしょう。

 

 

そのような好景気の裏で起こるのは、物価の高騰です。

 

なんで、好景気だと物価が高騰するのでしょうか?

好景気で収入が上がってくると、これまで手が出せなかったような贅沢品を買おうととか、

我慢していた購買欲を実現できるようになり、モノを買おうとする、サービスを受けようとする需要が増えます。

需要曲線が右に動くとき、供給が同じなら価格は上昇します。

 

それに加えて、第一次大戦中に起きた大事件があります。

 

それは、ロシア革命です。

第一次大戦では、主に二つの勢力が戦ったのですが、

連合国側がイギリスおよびフランスにロシア、そこにアメリカと日本が後出し参加、

対する同盟国側がドイツ、オーストリア、ハンガリーにイタリアとトルコにブルガリアが後出し参加

というような状況でした。

 

 

まあ、主にヨーロッパが主戦場であり、戦場に直接関係していない国々も、連合国か同盟国側のどっちかに就くという意味で、「応仁の乱」に似ています。

応仁の乱のように、世界の大戦争といっても、一気呵成に攻め込んだとか、新兵器が次々と登場して大成果を上げたというよりも、

どっちかというと、戦力が拮抗した者同士で、じっと国境沿いでにらみ合いを続け、我慢くらべをし続けたような戦いでした。

塹壕戦といって、相手の銃火器から身を隠すように、互いに地面に溝を掘ってその中から撃ち合うような戦いです。

 

 

戦力差がない状況で、延々とにらみ合いを続けていると、倦み飽いてきますのでその膠着状態を打破しようとして、いくつかの新しい軍事的非情な試みが、戦車の使用や毒ガスの使用でした。

結果として、延々と塹壕に閉じ込められ、突如現れる戦車や毒ガスの恐怖に怯えながらじっと逼塞するしかない、当時の戦場の様子は、名画「西部戦線異状なし」という映画を見れば、よくわかると思います。

 

 

また、それまでの主に職業軍人だけに寄った戦争行為が、科学技術の発達によって兵器の威力が増したことにより、素人でも戦力になり得るという意味で、国民皆兵の総力戦の様相を帯びて、軍人だけに寄らない徴兵制が一般化したのも、この第一次大戦でしょう。

 

そのような、戦争の悲惨さを描いた映画の名作としては、「ジョニーは戦争に行った」があります。

 

 

第一次大戦は1914年から1918年まで4年間強つづくのですが、終盤の1917年に連合国側の主力でもあったロシアが離脱します。

 

 

自主的な離脱というよりも、実質ロシアという国家が無くなってしまったのです。

それが、ロシア革命、ロシア内戦、ソビエト連邦の発足でした。

 

と、同時に、ドイツ軍は新たな新兵器を投入してきました。

それがUボートと呼ばれる潜水艦です。

多少ミリタリーに詳しい人でも、潜水艦って第二次世界大戦からじゃないの?と思われるでしょう。

違うのです。

第一次大戦のときに、いち早く潜水艦の実働に成功し、圧倒的な威力を発揮したのがドイツ帝国だったのです。

そして、「無制限潜水艦作戦」というものを始めてしまいました。

 

これは、極悪無道の軍事作戦といってもいいもので、無制限ということは相手が軍艦だろうが輸送艦だろうが、民間の商船だろうが、

予告なく攻撃するということを意味しており、Uー35一隻で226隻もの艦船を沈めています。

第一次大戦中にドイツ帝国はUボートを381隻も就役させ、実に5300隻もの艦船を沈めています。

そのため、食料を輸入に頼るイギリスでは商船を次々に沈められたため、一時的に食糧難にも陥っていました。

 

 

民間船舶を含めた無差別通商破壊をおこなうUボートの戦略は卑怯者の一言でしかありませんが、

白と黒でほんの一部赤が混じった、ドイツ帝国海軍の旗のデザインはカッコイイですね。

 

また、Uボートの卑怯者戦略、軍艦以外の民間船舶を無差別に攻撃するという愚挙がはっきり出たのが、

リヴァプールとニューヨーク間を航海中の豪華客船「ルシタニア号」の撃沈です。

イギリスからアメリカに向かう非武装の豪華客船をアイルランド沖で撃沈したのもUーボートでした。

 

 

乗客1200名が亡くなりました。

そのうち100人は子供でした。
 

 

この事件によって、ブチ切れたアメリカが第一次大戦に参加を決定しました。

 

同時に、それまで欧州戦線に参加を避けていた日本にも、イギリス連合国側より再三の護衛要請を受け、

日本は巡洋艦「明石」及び樺型駆逐艦計8隻からなる第二特務艦隊をインド洋経由で地中海に派遣しています。

 

 

地中海の守護神として、Uボートに襲われた艦船からの救助や、兵員の輸送で活躍し、連合国の劣勢を覆すことに大いに貢献したそうです。

 

 

「地中海で戦ったこと忘れないで」甦る日本艦隊への評価 地中海の小国マルタ 第一次大戦開戦100年

 

地中海で戦った日本海軍兵 特務艦隊 出動せよ!!【前編】 [Imperial Navy]

 

1919年に第一次大戦は終了しましたが、ヨーロッパ全体で兵士800万人が死亡、700万人が身体に障害を抱える事態になり、1500万人が重傷を負ってます。

また、オスマントルコが倒れることで周辺地域の混乱から数十万のギリシャ人、ロシア革命がらみで起きたポグロムで十数万にのロシア在住ユダヤ人、戦時の混乱で衛生状態の問題から発疹チフスでセルビアで20万人、ロシアでは300万人が死亡しています。

また、この時期に流行ったのがスペイン風邪、戦後の混乱時期ということもあって2000万人以上が亡くなりました。

イギリスでは100万人もの成人男子が死亡しています。

イギリス人口4500万人のうち、男女が半半だとして、男性2250万人のうち20~40代1200万人の約1割が亡くなったということです。

結果として、女性の社会進出が進んでいます。

 

 

結局、第一次世界大戦では、戦死者1600万人、戦傷者2000万人以上。

また、戦争の影響で病で亡くなった人が200万人、行方不明者が600万人ということで、

トータル4500万人近い人々の人生が踏みにじられました。

 

これだけの未曾有の人的被害を生じた第一次世界大戦でしたが、日本の戦死者・戦病者は907人でした。

当時の、我が国の為政者の判断、対応、政策決定ともに、見事という他はありません。

非情に難しい事態において、国民の命、財産、生活を守りきった政治家、軍人、学者の見識と知性の賜物です。

まさに、「戦わずして勝つ」という、孫子の兵法を地で行く結果です。

 

が、、、、この成果をチャラにするぐらいの愚策、それが!

シベリア出兵でした。

 

 

「なに一つ国家に利益をも齎すことのなかった外交上まれにみる失政の歴史である」ともいわれております。

 

この、シベリア出兵は外交的に戦略的にも大失敗なのですが、内政においても社会不安を引き起こしました。

それは、日本の食糧事情に大きな問題、いわば江戸時代と同じような飢饉のような事態。

 

それが、失政も失政、制御の切れた市場経済、無秩序な投資や投機によって、日本の経済の根幹を脅かした、悪名高い「米騒動」なのです。

 

⑦につづく