般若心経の和訳と瞑想修行法 | 仏教の瞑想法と修行体系

般若心経の和訳と瞑想修行法

以下の文章は、15年ほど前に私が書いて、ある一般読者を想定したサイトに掲載していた文章です。
このサイトで掲載されてなくっているので、以下に再掲載します。
 

ただ、一部、言葉使いを変えました。

 

<般若心経の漢訳 (玄奘三蔵訳を元にした流布本)>

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 
度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 
空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 
無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 
無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽 
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 
以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 
究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 
即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 
菩提薩婆訶 般若心経

 


<和訳>

『般若心経』の玄奘訳を元に、仏教や哲学の専門用語をなるだけ使わずに日常語で意訳しました。
ただし、玄奘訳で欠けている部分の大筋などを「大本(完全版)」やサンスクリット原本で補いました(青字部分)。
また、分かりやすくするため説明を付加しました(緑字部分)。


私はこのように聞いています。釈迦が大勢の出家した弟子達や菩薩様達と共に王舎城の霊鷲山にいた時、釈迦は深い悟りの瞑想に入りました。
その時、
観音(観自在菩薩)は深淵な“智慧の完成(般若波羅蜜多)”の修行をして次のように見極めました。)
人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する5つの集合体(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。
しかもそれら5つの要素も幻のように実体がないのだと。


そして、この智慧によって、すべての苦しみや災いから抜け出すことができました。
釈迦の弟子で長老のシャーリプトラ(舎利子)は、観音に次のように尋ねました。
「深淵な“智慧の完成”の修行をしようと思えば、どのように学べばよいのでしょうか?」
それに答えて、観音はシャーリプトラに次のように説きました。


「シャーリプトラよ、体は幻のように実体のないものであり、実体がないものが体としてあるように見えているのです。
体は幻のように実体のないものに他ならないのですが、かといって真実の姿は我々が見ている体を離れて存在するわけではありません。
体は実体がないというあり方で存在しているのであり、真実なるものが幻のような体として存在しているのです。
これは体だけでなく感覚やイメージ、感情や思考も同じです。
(つまり、私が存在するとこだわっているものの正体であると釈迦が説かれた「五蘊」は、部派仏教が言うような実体ではありません。)

シャーリプトラよ、このようにすべては実体ではなく、生まれることも、なくなることもありません。
汚れているとか、清らかであるということもありません。
迷いが減ったり、福徳が増えたりすることもありません。
このような実体はないのだという高い認識の境地からすれば、体も感覚もイメージも連想も思考もありません。
目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いもありません。
目に映る世界から、心の世界まですべてありません。
(つまり、釈迦が説かれた「十二処」は部派仏教が言うような実体ではありません。)

迷いの最初の原因である認識の間違いもなければ、それがなくなることもありません。

同様に迷いの最後の結果である老いも死もないし、老いや死がなくなることもありません。
(つまり、釈迦が説かれた「十二縁起」のそれぞれは部派仏教が言うような実体ではなく生まれたりなくなったりしません。)

苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません。
(つまり、釈迦が説かれた「四諦」のそれぞれは部派仏教が言うような実体ではありません。)
知ることも、修行の成果を得ることもありません。
また、得ないこともありません。

このような境地ですから、菩薩様達は“智慧の完成”によって、心に妨げがありません。
心に妨げがないので恐れもありません。
誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に開放された境地にいらっしゃいます。
過去・現在・未来のすべての仏も、この“智慧の完成”によって、この上なく完全に目覚めたのです。

ですから知らないといけません。
“智慧の完成”は大いなる真言、大いなる悟りの、最高の、他に比べるものもない真言であり、すべての苦しみを取り除き(取り除く真言であり)、偽りがないので確実に効果があります。

さあ、“智慧の完成”の真言はこうです。
 

「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」
(智慧よ、智慧よ、完全なる智慧よ、完成された完全なる智慧よ、悟りよ、幸あれ。)

シャーリプトラよ、深淵な、“智慧の完成”の修行をするには、以上のように学ぶべきなのです。
この時、釈迦は瞑想を終えられて、「その通りです」と、喜んで観音をお褒めになられました。そして、シャーリプトラや観音やその場にいた一同をはじめ、世界のすべての者達は釈迦の言葉に喜びました。



以上で“智慧の完成”の神髄の教えを終わります。


<『般若心経』とは?>

『般若心経』は正しくは『般若波羅蜜多心(プラジュニャーパーラミターフリダヤ)経』と言いますが、インドのサンスクリット語の原典にはタイトルはなく、中国で、結びの言葉に「経」を付加してタイトルにしたのです。


「般若波羅蜜多」について説く経典は多数あって、それらを総称して般若経典と呼びます。
般若経典は紀元前後から作られ始め、12世紀頃まで作られました。
『般若心経』はその中の一つで、般若経典の神髄を短くまとめたとする経典です。
 

『般若心経』がいつどこで書かれたかははっきりしませんが、インドで観音信仰が広がり、仏教が密教化していった5-6世紀頃ではないかと推測されています。
4-5世紀に生きた鳩摩羅什によるとされる漢訳本があるため、もっと早く成立していたと思われていましたが、最近の研究では羅什訳は後の時代の偽作の可能性が強く、『般若心経』の成立が確実に確認できるのは7世紀初頭頃になってからです。
 

『般若心経』には、玄奘訳のように観音菩薩の説法に当たる本文だけからなる「小本」と、本文の前後に物語の基本的な設定に当たる序文やエピローグを含んだ「大本」の2つの系列があります。
上の和訳では「大本」だけにある部分は青字で大筋を訳しました。
この部分がないと、釈迦も登場せず「仏説」としての根拠がないので経典として成立しません。
歴史的には、最初に般若経典から神髄だけを抽出した「小本」が作られて、後に経典として体裁の整った「大本」が作られたようです。

「般若波羅蜜多(プラジュニャーパーラミター)」は「智慧の完成」、「完全なる智慧」という意味です。
「プラジュニャー(パンニャー)パーラミター」を「般若波羅蜜多」と音訳しているのは、これが固有名詞と考えるべき特別な智慧だからです。
大乗仏教では修めるべき六つの修行・徳目を「六波羅蜜多」と言いますが、その中の最後の最も重要なものが「般若波羅蜜多」です。

「心」と訳されている「フリダヤ」は、直訳すると「心臓」ですが「神髄」という意味で使われます。
つまり「般若心経」とは、「般若波羅蜜多の神髄」であると共に「般若経典の神髄」という意味です。

「フリダヤ」は「真言」という意味でも使われるので、「般若波羅蜜多の真言」という意味だと解釈する説もありますが、結局はどちらでも同じです。
なぜなら、『般若心経』の中に「般若波羅蜜多は大いなる真言である」と書いてあり、『般若心経』の主張は「般若波羅蜜多の神髄は真言である」ということだからです。
『般若心経』は「般若波羅蜜多」の修行方法を説いており、文章の流れからして、明らかに真言を伝授することを核心としています。

釈迦の生きていた当時の多くのインドの宗教・思想では、禁欲・苦行や無念無想の瞑想を行って欲望や執着を制御することで解脱ができると考えていたのですが、釈迦は、あるがままを観察する瞑想で得られる智慧によって、欲望や執着の原因を理解してそれをなくすことで解脱ができると考えました。


仏教では何かに集中し、一体化して心を静める瞑想を「止(シャマタ、サマタ)」、何かを観察し、分析する瞑想を「観(ヴィパッシュャナー、ヴィパッサナー)」と呼びます。
「六波羅蜜多」の5番目の「禅波羅蜜多」が「止」に、6番目の「般若波羅蜜多」が「観」に相当します。
 

『般若心経』は観自在菩薩が智慧第一の長老シャーリプトラに説法するという設定になっています。
観自在菩薩はその名前が示している通り、「観」の瞑想に秀でているとも解釈できる大乗仏教の菩薩で、一方、シャーリプトラは部派仏教の智慧を象徴すると想定されている人物です。
 

仏教の経典類は「三蔵」と呼ばれる「経」「律」「論」に分類されます。
原則として釈迦の説法を記録した「経」に対して、釈迦の教えを解釈し、体系化したものが「論」です。
部派仏教の各宗派はそれぞれに「論」を作りましたが、シャーリプトラが釈迦の教えを解釈してまとめたことが、「論」の始まりとも言われています。
 

「観」の瞑想では、どのように集中するかということと、どうような教説に即して観察・分析し智慧を得るかということが問題になります。
以下にこの2つを説明しましょう。


<空の思想>

『般若心経』が「般若波羅蜜多」の修行で得られる智慧として説いているのは、大乗仏教の「空」の智慧です。
つまり、「般若波羅蜜多」の智慧は「空」を理解する智慧であり、瞑想修行の中ですべてを「空」であると洞察するのです。

 『般若心経』が次々と数え上げながら、「空」である、「無い」と否定しているのは、「五蘊」、「十二処」、「十二縁起」、「四諦」など、釈迦が説いたとされる仏教の中心的な教説、基本的な概念で、「法(ダルマ)」と呼ばれるものです。

部派仏教は経典を解釈しながら、世の中のあらゆるものを細かく分析して、真に存在するものを「法」としました。
そして、観の瞑想によって「法」を見極め、我々が一般に存在していると思っているものは観念でしかなく、しかも、真に存在しているこの世の「法」(有為法・行)は無常なものであると。

したがって、執着することは苦であり、どこにも私はないのだという智慧を得て、煩悩をなくすことで悟りが得られるとしました。
そして、「法」は、悟りと関係した清いものであったり、煩悩と関係した汚れたものであったり、また、生じてはすぐに滅するものだなどと考えました。
これら部派仏教の哲学的思想は「アビダルマ論」と呼ばれます。

しかし、大乗仏教は、部派仏教が「法」を大切にし過ぎるあまり、これらを実体のように考えていると批判しました。
当時、大乗仏教が批判の対象にしていたのは、部派仏教の中でも主に「説一切有部」と呼ばれる部派であり、その後、東南アジアで主流となっている「上座部」とは違います。


『般若心経』は、部派仏教の「アビダルマ論」を知っている人を対象にして、「法」も含めてすべてのものは「空」であって、もともと真実に存在しているものではないのだから、生まれることも、滅することも、汚れているということも、清らかであるということもないのだと、一つ一つ批判しているのです。

 『般若心経』は、決して「五蘊」、「十二処」、「十二縁起」、「四諦」などの仏教の基本的な教説を否定しているのではなく、これら「法」を実体視することを否定しているのです。
そして、この「空」を洞察する智慧によってこそ悟りに至ると説いています。

一連の「空」の説法の中でも最も重要なのは、大本が最初に観自在菩薩が見極めた内容だと語る「五蘊」の「空」です。
玄奘訳では「五蘊は空である」と訳されていますが、サンスクリット原典では「五蘊があり、それが空である」と書かれています。
つまり、釈迦が悟ったた五蘊説をまず認め、次にそれを実体と見ることを否定しています。

五蘊説は「無我」を説く仏教の基本的な教義で、これを理解することが『般若心経』を理解する基本になりますので、長い付加的な説明をつけて訳しました。
五蘊の無常を瞑想する修行法は「五蘊観」と呼ばれ、古来、これだけで悟りに至れるとされてきました。

「色」は一般に「形あるもの」とか「物質」と訳されることが多いですが、自我への執着をなくすために説かれた本来の「五蘊説」の文脈では「体」ですので、ここでは「体」と訳しました。
ちなみに「蘊」は「集合体」の意味で、実体ではないということですが、5つ集まっているから集合体なのではなく、五蘊のそれぞれが集合体でどれも実体ではないという意味です。

また、玄奘訳に「色不異空 空不異色/色即是空 空即是色」という有名な一節がありますが、サンスクリット語の大本などにはこの前に「色性是空 空性是色」などと訳される部分があって、三段階の説明となっていました。
経文を直訳すると下記のようになります。

(1) (A) 色は空性であり (B) 空性こそ色である
(2) (A) 色は空性と別ではなく (B) 空性は色と別でない
(3) (A) 色なら空性であり (B) 空性なら色である

似た文が6つ並んでいます。
『般若心経』は読経や瞑想修行を目的として、リズムや繰り返しを重視して書かれているので、それぞれの文の違いにはあまり意味がないかもしれません。

(1)、(2)、(3)は表現は違いますが、論理的には意味はほぼ同じです。
ただ、(A)と(B)については、インド仏教の伝統では下記のように大きな意味の違いがあると解釈されてきました。

(A)は言葉によって実体に執着することを否定する智慧の段階を表現しています。
それに対して、(B)は何も存在しないという極端な考え方を否定すると共に、言葉のない体験に執着することも否定する智慧の段階を表現しています。


(B)は大乗仏教が重視する智慧で「後得智」と呼ばれるものです。
言葉による認識はあっても、それらを実体視せず、執着もない状態であり、最終的には、言葉のない直観的な認識と言葉をともなう認識が完全に一致・両立します。
この智慧があってこそ、人を救うことができるのであって、部派仏教の阿羅漢とは異なる大乗仏教の仏の智慧であると考えられました。

上の和訳では、(A)から(B)への認識の進展を(1)から(3)の流れの中で表現しました。


<真言の修行法>

『般若心経』で述べられている「空」の思想は、思想として勉強するためのものではなく、「観」の瞑想をするための指針です。
つまり、部派仏教では「アビダルマ論」に沿って「観」の瞑想を行うのに対して、『般若心経』では「空」の思想に沿って「観」の瞑想を行うのです。

ちなみに、南伝アビダルマ(上座部)の修行道は『清浄道論』などに、北伝アビダルマ(説一切有部系)の修行道は『阿毘達磨倶舎論』などに、大乗仏教の般若経系の修行道は『現観荘厳論』などにまとめられています。
般若経系の修行道は、北伝アビダルマの修行道を、空思想と菩薩の利他主義の観点から組み直したもので、「五道」という形にまとめられています。
 

ただ、『般若心経』は後半部で「真言(呪文・マントラ)」を称えて紹介しています。
具体的な説明はしていませんが、「般若波羅蜜多」の修行は「真言」を繰り返し唱える「念誦法」と呼ばれる方法を使った修行なのでしょう。
しかし、「真言」を唱えるからといって密教ではありません。

智慧を得て解脱するためには「観」の瞑想を行うのですが、深い智慧を得るためには、まず、何か一つのものだけに集中し続けて、言葉による認識のない状態でその対象との一体化を目指す「止」の瞑想が必要なのです。
部派仏教でも、まず、呼吸など40種類の対象(四十業処)に集中する「止」を行って集中力を高めてから「観」に移ります。
 

「止」を行う際、集中する対象を指す言葉を繰り返し唱えながら集中することもあります。
例えば、呼吸に集中する場合は、「息を吸った、息を吐いた」と繰り返し唱えます。


これに対して『般若心経』が説いている「般若波羅蜜多」の瞑想法は、「真言」を繰り返して唱えてそれ自身に集中する方法でしょう。
まず、「真言」を唱えながら心を「真言」に集中します。
 

その後、おそらく「真言」を唱え続けながらも、自分が体験していることや外界の存在などの現実を対象にして観察します。
『般若心経』で述べられている「空」の教説に沿って、日常的な主観を排除して、自分がそれらに対して妄想や執着を持っているけれども、実際にはそれらが存在しないこと、つまり、「法」も含めてすべては「空」であると理解します。

「五道」の修行の階梯にそって智慧の深まりを簡単に紹介しましょう。

 

最初の「資糧道」では、空の思想を言葉によって知的に勉強します。
 

次の「加行道」では、それを言葉を使いながら「観」の瞑想の中で理解します。
分析を進め、集中力もついてくると、しだいに言葉のない状態で洞察を行う「止」と「観」が一体の瞑想になり、直観的にあるがままを認識する「空」の智慧が生じます。
 

次に、瞑想をやめて言葉の世界に戻っても、空の認識が生きた「後得智」が働くようにします。
この段階が「見道」です。
 

さらに瞑想修行を進めて、先天的な煩悩まで取り除いていくのが「修道」です。
 

最終的に、一切の煩悩がなくなると、言葉のない直観と言葉のある認識が一致して、すべてを知る仏の智慧が生まれます。
この最後の段階が「無学道」です。


<真言の意味>

「真言」は、それをただ唱えれば何かがかなえられるという魔法の言葉ではありません。
本来、「真言」は経典や仏の智慧を心の中に呼び起こして保持するための言葉です。
「真言」を唱える瞑想の中で、集中力の高まった直観的な智慧の体験を何度も経験していて初めて、「真言」を唱えることが条件反射的に智慧の体験を導くのです。

一般に「真言」の内容は、教説を凝縮した象徴的な言葉であったり、祈願や帰依の言葉ですが、「真言」は日常の言葉とは異なっていることが望ましく、言葉の意味よりも響きが重要とされます。
そのため、『般若心経』の「真言」も音訳されることが多く、上の訳では、インドの原典の発音をカタカナにしました。

「波羅蜜多(パーラミター)」は、「完全な」「完成」という意味だと書きましたが、語呂合わせ的には「パーラ」=「彼岸(悟り)」に「イター」=「到った」と解釈できるので、仏教の伝統ではこの解釈もされてきました。


この解釈は「般若波羅蜜多」を擬人的に表現したものですので、自然に「般若波羅蜜多」を人格的に考えるようになりました。
真言の「ガテー」は「行く」という言葉の過去受動分詞、女性単数の呼格と思われます。
『般若心経』のテーマである「智慧(般若)」はインドの言葉では女性名詞です。
ですから「ガテー、ガテー、パラガテー」は「彼岸に到った貴女よ」と「般若波羅蜜多」に呼びかけています。
「パーラミター」と同じ意味の「パーラガテー」を掛けているのでしょう。
 

つまり、『般若心経』の「真言」は「般若波羅蜜多」の智慧に呼びかけるものであり、修行の目標そのものを意味しています。
もともと「真言」というものは智慧を導びき、智慧に等しいものですから、『般若心経』の「真言」は「真言」そのものであり智慧そのものだと言えます。
そして、過去にも菩薩達がこの「真言」を唱えた結果、実際に智慧を完成させて悟りを得て目標を達したのだから、この「真言」はその言葉の内容を実現する力がある真実のものであるということになります。
ですから、「般若波羅蜜多」の神髄は「真言」であり、「般若波羅蜜多」=「真言」であるというのが『般若心経』の主張なのです。

「智慧」は女性名詞であり、「智慧」によって仏が生まれるということから、『大般若経』では「般若波羅蜜多は諸仏の母」と書かれ、密教の時代には「般若仏母」と呼ばれる女性の仏であると考えられるようになりました。
『般若心経』は密教が盛んになり始めた頃に作られたものだと推測されているので、「智慧」を女神のように考えていたという側面がすでにある程度あったのでしょう。
 

ただ、密教以前でも、大乗仏教が生まれた当時のインドは、ヘレニズム文化圏の東端にあたり、ギリシャ、イラン(ペルシャ)系の王朝が次々と支配し、その文化の影響を受けていました。
仏像が生まれたのはギリシャ彫刻の影響ですし、救いや光の性質を持ったたくさんの仏・菩薩が生まれたのはイランの神々の影響です。
 

当時のヘレニズム文化圏では宗教を超えて霊的な「智慧の女神」に対する信仰が広がっていましたので、『般若心経』にもその影響があったかもしれません。
ギリシャの智慧の女神ソフィアの影響を受けて、イランでは河の女神アナーヒターが智慧の女神となりました。
アナーヒターは観音菩薩の誕生にも影響を与えたと言われています。