「天台小止観」(中国天台宗) | 仏教の瞑想法と修行体系

「天台小止観」(中国天台宗)

中国において、瞑想修行論で、宗派を越えて最も大きな影響を与えたのは、天台宗の第三祖で実質的には開祖的存在である、天台智顗(6C)でしょう。

もともと「禅」とか「禅門」というのは、天台宗のことを指していて、禅宗は「達磨宗」と名乗っていました。

天台智顗には、瞑想修行論として、執筆年代順に「次第禅門」、「天台小止観」、「摩訶止観」の3論があります。
そして、この順で智顗の教学・修行法が深まっていきます。
本ブログでは、伝統的な止観法を中心にした「天台小止観(修習止観坐禅法要)」と、天台智顗の独特な教学に沿った観法を行う「摩訶止観」の2つを紹介します。

「次第禅門」は、「禅」という言葉を使い、つまりは「止」について説いています。
それに対して「天台小止観」は「止観」というより言葉を使って、「観」についても説いているのが特徴です。

しかし、「天台小止観」には、「三学」や「五道」という構成はありません。

また、智顗は「止」と「観」を必ずしも伝統的な意味で使っていません。
「止」の原語も、「シャマタ」だけではなく、「スターナ」も「止」として語られます。

伝統的な意味においては、「止」は「定」、「観」は「慧」として区別されます。

しかし、智顗にとって、「止」と「観」は必ずしもそのように区別されるものではなく、連続的で一体的なものです。
時には、「止」と「観」がほとんど区別されず、どちらも「慧」とされます。

智顗は、すべては心が作り出したものという唯識派的な世界観を持っています。
そのため、「観」に関しては、結局は心を観察すること、つまり「観心」に他ならないと考えます。
ですから、「止」では外的対象を対象としても、「観」では外的対象を作る心を対象とする、という傾向があります。

修行の階梯も、「止」から「観」へと進むというよりも、「止観」の瞑想を順次深めていくという形になります。


「天台小止観」の修行法の全体は、大きくは、「二十五方便」という準備的な段階と、「止観」である「正修の行」から構成されます。

「正修の行」は、「坐禅の修習」と、日常の中での瞑想である「歴縁対境の修習」の二つの局面からなります。
「坐禅の修習」の方が優れた方法として、最初に説いています。

この2つは、一つを終えてからもう一つに進むという意味での階梯として説かれていません。
しかし、実際的には実習の順はこの順で始めるのでしょうし、後者の方が難易度は高く、そういう意味では、階梯的であると言ってもよいのではないかと思います。
後者は、「摩訶止観」の四種三昧の4番目に当たる「非行非坐三昧」につながるものです。

また、「証果」つまり、「止観」の瞑想の成果として、「三止三観」が説かれますが、これも階梯的なものと言えます。
簡単に言えば「空」→「仮」→「中」と「止観」が進みます。
この発想は、元々は中観派の見解に由来するものです、中観派の見解とは異なります。

これは階梯的に行うもので「漸次止観」と呼ばれます。
「摩訶止観」では、「三止三観」を階梯的には行わないので、「円頓止観」と呼ばれます。

以下、全体をもう少し詳細に説明しましょう。


<二十五方便>

「二十五方便」は、「止観」の準備としての、以下の5×5つの方法です。
実は、「二十五方便」という言葉は「次第禅門」で使われている言葉であって、「天台小止観」では使われていません。
しかし、同じ構想が使われているので、便宜上「二十五方便」という言葉を使います。

・「具五縁」
戒を保つ、衣食が適切、山間の静処に住む、俗世間を捨てる、師に教えてもらう、の5つです。

・「呵五欲」
色、声、香、味、触の五欲を生ぜるものを押さえて捨てることです。

・「棄五蓋」
貪欲、瞋欲、睡眠、掉悔、疑惑という瞑想の障害となる煩悩心を棄捨することです。

・「調五事」
食、眠、身、息、心の五事を調節して瞑想がうまくゆくようにすることです。

「調身」では、座法としては、半跏坐では左脚を上、結半跏坐では右脚を上にします。
手は左手を右手の上に組みます。
左脚、左手を上にするのは、一般的なインド仏教の伝統と反対です。
日中の禅宗も左脚、左手を上にします。

眼はわずかに外の光を断つ程度に閉じます。

「調息」では呼吸法としては、静かに、なめらかに呼吸をします。

「調心」では、心が沈んでいる時は鼻の頭に集中し、心が落ち着かない時はヘソの部分に集中するおとで、適度な精神状態にします。

・「行五法」
欲(修行を欲する)、精進、念(修行が大切であると思い聞かせる)、巧慧(世俗の楽より修行による楽の方が素晴らしいものであると考える)、一心(明晰な思考力を持って修行に励む)の五法を行ずることです。


<正修の行>

「止観」の方法である「正修の行」は、先に書いたように、座禅である「坐禅の修習」と、日常での瞑想である「歴縁対境の修習」からなります。
これは局面の違いですが、実際には階梯的側面もあるでしょう。

・「坐禅の修習」

これは5つの状況に応じて「止観」の方法が説かれます。
これについても、階梯として説かれていませんが、最初が初心の段階での方法であり、最後が止観一体の段階の方法なので、全体が階梯的な構成であると言っても間違いではないでしょう。

1 「初心の乱れがちな心を収めるための止観」

最初、心が粗く乱れがちな時は「止」を行います。
しかし、「止」で収まらない時は、「観」を行います。

「止」には次の3つのタイプがあります。

止1 「繋縁守境止」
:一つの対象に集中して心を散らさないようにする。

止2 「制心止」
:心が動いてきたらそれを押さえて気が散らさないようにする。

止3 「体真止」
:すべての現象は心が作り出した実体のないものであることを知り妄想をなくす。
これは一般的な仏教の伝統では「観」に属するものですが、止観一体の状態であるので、「止」の側面からも捉えるのでしょう。

「観」には次の2つのタイプがあります。

観1 「対治観」
:特定の煩悩の心を直すために行う。
具体的には「不浄観」で淫欲の心を対治、「慈悲観」で怒りの心を対治、「念仏観」で諸々の罪障を対治、「因縁観」で無知を対治、「数息観」で心の散乱を対治します。
これらは、一般的な仏教の伝統では、「止」として分類するものです。

観2 「正観」
:すべての現象は心が作り出したもので、現象も心も実体のない「空」であることを考察する。
内容的には「体真止」と一体です。

具体的には「心は有なるものか、無なるものか」→「どちらとしても、心はない」、「心は生滅するものか、しないものか」→「どちらとしても、心は知覚しえない」、「心は自らを原因として生じたのか、他を原因として生じたのか」→「どちらにしても心は認知しえない」、そして、「観察する心も観察される心も認知し得ないのなら、現象も認知し得ない」などと考察し、一切の迷いから離れるようにします。

2 「浮き沈みする心の対治としての止観」
:心がはっきりせず、眠たい時には「観」を、心が安定せず気が散る時には「止」を行います。

3 「状況に応じた止観」
:2の対応でうまくいかない場合は、試しに、逆に「止」、「観」を行います。

4 「微細な心の誤りの対治としての止観」
:粗大な対象を収めても、微細な対象に捕われた場合は、その対象が存在しないと見るように「止」を行います。
それでも収まらない場合は、その微細な対象を作る心を観察する「観」を行います。

5 「定慧を均等にするための止観」
:座禅中に、対象を正しく観察する智慧が足りない場合は「観」を、集中力が足りない場合は「止」を行います。


・「歴縁対境の修習」

「正修の行」の2つ目である「歴縁対境の修習」は、座禅の修行中の瞑想ではない、日常の中での瞑想法です。
様々な行動中(六縁)における瞑想法と、様々な感覚(六境)を感じての瞑想法の2つの局面があります。
この12の方法は、階梯ではありません。

「六縁」は行(歩く)・住(じっとしている)・坐・臥(横になる)・動作(その他の動作)・言語(語る)という6種類の行動を行う時です。

「止」については、例えば、「行っても得るべきものはないことが分かれば妄想は起こらない」などと、どんな行動をしても意味がないことを考察します。

「観」については、例えば、「行こうとする心を観察すると、空である」などと、何をしようとする心にも実体がないことを考察します。

この6種類の行動を行う場合ごとに、「坐禅の修習」で行った五種類の局面で、この「止観」を行います。

「六境」は見る・聞く・匂う・味わう・触れる・考えるという6種類の感覚を感じる時です。

「止」については、例えば、「見る対象には実体がなく、それに愛着や妄想を起こさない」などと、どんな感覚の対象への執着にも意味がないことを考察します。

「観」については、例えば、「見る作用にも見えたものも空である」などど、どんな感覚の作用にも対象にも実体がないことを考察します。

ただし、「六境」の最後の「考える(意)」に関しては、「坐禅の修習」ところで説かれたことが当てはまります。

この6種類の感覚を感じる時ごとに、「坐禅の修習」で行った五種類の局面で、この「止観」を行います。

結局、12の状況に対して、5種類の階梯的な「止観」を行う、ということになります。


<善根の発する相>

「天台小止観」では、この後、「止観」を行うことで現れる良い結果である「善根」が語られます。
この「善根」は、「欲界定」「未到地定」「初禅」に至った成果として語られます。

具体的には、「数息観」の成果と同様に心が安らかになる、「不浄観」の成果と同様に身体の不浄を感じるようになる、「慈悲観」の成果と同様に人々に対する慈悲の念が現れる、「因縁観」の成果と同様に物事を実体視をしなくなる、「念仏観」の成果と同様な諸仏の功徳があふれるようになる、などです。


<証果>

「善根」の後、魔事や病気などの障害に関する説明があり、最後に、「止観」の成果である「証果」が語られます。

証果では、「観行」として「止観」の3段階の階梯的な進展である、「三止」、「三観」、「三眼」、「三智」が語られます。
「三止」は智顗が独創したものです。

簡単に書けば、「空」→「仮」→「中」と進みます。
これは先に書いたように、階梯的に行うので「漸次止観」と呼ばれます。

1 「空」

現象に実体がないことを知ります。
しかし、救うべき衆生の存在を見ません。
この段階の「止」を「体真止」、この段階の「観」を「従仮入空観(二諦観)」、この段階の智を「慧眼」、「一切智」と呼びます。

2 「仮」

心は空であって、対象に向かう時、存在を生み出すことを知ります。
これは、幻のようなものですが、姿・形を持ったものです。
そして、衆生の性質を知り、説法を行えます。 
この段階の「止」を「方便随縁止」、この段階の「観」を「従空出仮観(平等観)」、この段階の智を「法眼」、「道種智」と呼びます。

3 「中」

心は空でもなく、仮でもなく、どちらでもなくはないことを知ります。
この段階の「止」を「息二辺分別止」、この段階の「観」を「中道正観」、この段階の智を「仏眼」、「一切種智」と呼びます。


さて、この智顗による「空」、「仮」、「中」の解釈は、中観派のナーガルジュナの「中論」の24章18詩を解釈したもので、三諦偈と呼ばれます。

ですが、「中論」での本来の意味では、「縁起」=「空」と「仮」=「中」の2段階であり、智顗のように「仮」と「中」を別のものと理解することはできません。
また、「仮」はあくまでも「空」の認識を仮に言語化したものであり、智顗のように分別された現象一般を指すことはありません。

中観派の般若学では、「空」は「等引智」、「仮」は「後得智」と呼ばれ、2段階で考えられますが、仏の段階では、「後得智」が「等引智」と一体化します。
ですが、智顗の「中」がこれに当たるとすることはできません。

なぜなら、「天台小止観」は、「仮」の「中道正観」によって、禅定と智慧が均衡し、菩薩の五十二位に第11番目に当たる「初発心住」に達することができるとします。
これは、「十地」以前の段階ですが、諸法の真実を悟ることができる段階なので、伝統的な修行階梯で言えば「五道」の「見道」に入る段階でしかないからです。