四前行(ゲルグ派) | 仏教の瞑想法と修行体系

四前行(ゲルグ派)

密教の「前行」として、チベット宗派の中でも後期密教として最も体系化されているゲルグ派の「四前行」を紹介します。

「前行」は「本行」に入る前に、障害を浄化して、功徳を積むための修行です。

四前行は、「帰依・発菩提心」、懺悔によって浄化する「金剛薩埵の瞑想」、供養で功徳を積む「曼荼羅供養」、グル=仏から加持を受け一体化する「グル・ヨガ」の4種類で構成されます。
それぞれの概略・主要部分を紹介します。


<帰依・発菩提心>

眼前の空間に釈迦を中心とする集会樹(伝授の流れにある諸尊や師達が描かれているタンカ)を観想し「ラマに帰依いたします」と何度も唱えます。

ラマ達の身体から甘露が流れ落ち、自分と一切衆生の心と身体に入って、身口意の加持の力が入り、意罪を浄化し、智慧と福徳が増大したと観想します。

「仏に帰依いたします」と何度も唱えると、仏達の身体から甘露が流れ落ち、浄化されると観想します。
続いて、「法」、「サンガ」、「本尊曼荼羅の諸尊の集会」、「護法尊達」についても同様の観想をします。

三宝への帰依、発菩提心、四無量心の偈頌を順に唱え、それぞれ瞑想します。

本尊に加持を祈願し、釈迦の心臓から光が放たれ、諸尊が光に溶け込み、釈迦の心臓そして額に溶け込み、自分の心に加持の力をもらったと観想します。

回向の偈頌を唱え、瞑想します。

「発菩提心」に関しては、大乗と同じで、「自他平等」か「自他交換」の瞑想を行います。


ちなみに、ニンマ派の「帰依・発菩提心」では、次のような特徴があります。

・帰依の偈頌と瞑想の後、五体投地を10万回行う
・一日中、集会樹と一緒にいて、帰依のもとに生活していると考える
・発菩提心の偈頌を唱え、瞑想、集会樹を観想を10万回行う
トンレンの瞑想を行う
など


<金剛薩埵の百字真言>

金剛薩埵に懺悔し、罪を浄化するための瞑想です。

「準備の瞑想」、「因位の菩提道の瞑想」と呼ばれる観想の後、中心の観想である「果位の菩提道の瞑想」を行います。

自分の頭頂部分に、白いフーム字と金剛杵を観想し、それが明妃を抱いた白い金剛薩埵に変化すると観想します。
(正式な灌頂をうけていない人は、自分を仏として観想できないので頭頂に観想します)
金剛薩埵の頭頂に法輪とオーム字、喉に蓮華座とアー字、心臓に白い月輪座、金剛杵とフーム字、その周りに白い百字真言の鬘(真言を輪状につなげたもの)を観想します。
フーム字から光が出て本来の境地(法身)から4つの種子の過程を経てジュニャーナサッタを招き、観想した金剛薩埵に溶け込んで一体となると観想します。

金剛薩埵のフーム字から光が放たれ、一切如来を五仏の姿で招き、それらに灌頂を祈願します。
五仏は甘露に満たされた瓶で金剛薩埵の頭頂から灌頂を与えている、フーム字の廻りには百字真言の鬘を観想します。

いくつかの観想の後、金剛薩埵が一切衆生一人ひとりに金剛薩埵を放ち、それぞれの頭頂から甘露を流して悪趣を浄化し、三学の修行によって金剛薩埵の境地を獲得させると観想します。

金剛薩埵となった一切衆生から金剛薩埵が放たれ、自分の頭頂の金剛薩埵の心臓に溶け込み、さらに荘厳さを増して無上のものとなると観想します。

金剛薩埵の百字真言を唱えながら、金剛薩埵の心臓のフーム字の周りに真言の鬘が回るのを観想します。
そこから光が放射され、すべての生き物を浄化するのを観想します。
さらにその光は十方のすべての仏たち供養を捧げ、仏たちの身口意・功徳・行為を光に吸収し、真言に溶け込むと観想します。

さらに、百字真言を唱えながら「甘露降浄法」の観想をします。

1 下降法

金剛薩埵から甘露が頭頂から降りてきて、罪障は灰液と墨汁のような黒いものとして、病は腐った血や膿として、霊的障害は蜘蛛や蠍、亀や魚として、身体の下部から放出すると観想します。

これは「甘露降浄法」の中でも「下降法」と呼ばれますが、他にも「上昇法」、「蘊の法」、「四灌頂下降法」があります。

「四灌頂下降法」では、
・金剛薩埵の心臓からの白い甘露が頭部のチャクラを満たし、身業を浄化すると観想します。(瓶灌頂)
・赤い甘露が喉のチャクラを満たし、口業(煩悩)を浄化すると観想します。(秘密灌頂)
・心臓のフーム字からの青い甘露が心臓のチャクラを満たし、意業(無知)を浄化すると観想します。(智慧灌頂)
・まだら(金色)の甘露がへそのチャクラを満たし、三業に共通の罪を浄化すると観想します。(語句灌頂)

以上では、自分を普通の人間として、その頭頂に金剛薩埵を観想しますが、自分自身を金剛薩埵として観想したり、一旦そう観想する場合もあります。

ちなみに、ニンマ派の「金剛薩埵」の瞑想の場合は、次のような特徴があります。

・すべての衆生の頭頂に金剛薩埵を観想する
・身体から流れ出た黒い汚物は食べ物や花に変わり、地下の者に届き、彼らは満足して地下に消えていくと観想する
・地獄から六道を浄化し、金剛薩埵の東方浄土に変化し、衆生は五色の金剛薩埵に変化すると観想する
など


<曼荼羅供養>

「曼荼羅供養」は功徳を積むための瞑想です。

「供養曼荼羅」が全宇宙を象徴していると考え、そこに世界中のあらゆる供物が載っていると観想します。
米粒を両手に載せ、供養曼荼羅の手印を結び、経文を唱え、米粒を右手にまとめて放り上げて、ツォンカパをはじめとする諸師と三宝へ供養すると観想します。

ニンマ派の場合は、「供養曼荼羅」の他に「成就曼荼羅」も使います。


<グル・ヨガ>

「グル・ヨガ」は、インドの「本尊ヨガ」を元にチベットで生まれたものです。
師への帰依、供養と、師による加持(浄化)を観想します。
「グル・ヨガ」は「前行」の中でも重要な瞑想法なので、他の3つの「前行」も組み込んで、一つの前行体系のようにして行うことが一般的です。
ゲルグ派にはいくつかの種類の「グル・ヨガ」がありますが、ここでは三菩薩からの灌頂を含む「ガンデン・ラギャマのグル・ヨガ」を紹介します。

この「グル・ヨガ」も「前行」→「本行」という構成で、「本行」は「数息観」→「帰依と発菩提心」→「四無量心」→「七支分」→「ミクツェマと三菩薩の真言」→「金剛薩埵の百字真言」→「曼荼羅供養」→「グル・ヨガ」→「ユルテン・シルキュルマの読誦」→「普回向」で構成されます。
この中で、「グル・ヨガ」として中心的な部分は「ミクツェマと三菩薩の真言」と「グル・ヨガ」の部分です。

「ミクツェマと三菩薩の真言」は、三菩薩からの灌頂を授かるもので、次のような4つの観想を行います。
4種のチャクラ、種子、マントラによる浄化がセットになった観想です。
まず、ゲルグ派の場合は、ゲルグ派の開祖のツォン・カパを目の前に観想します。
普通の僧衣の姿の場合もあれば、持金剛仏父母尊の姿の場合もあります。

1 ミクツェマ
:ツォン・カパ大師の胸にあるフーム字の空点の中のマム字(ツォン・カパの種子)の回りにミクツェマ(ツォン・カパの礼賛偈)の密呪の環が回っていて、そこから光が放たれている。
一切如来達が加持を授けてその力が密呪の環に溶け込み、そこから五甘露と光が自分と一切衆生へ降り注ぎ、光が心身に溶け込んで、すべての罪障、病、迷いが除かれると観想し、真言を誦える。

2 文殊菩薩の真言
:ツォン・カパの額にいる文殊菩薩の胸にあるディーヒ字の回りに真言の環が回っている。
そこから五甘露と光が自分と一切衆生へ降り注ぎ、光が心身に溶け込んで、無明の闇が除かれ智慧を得ると観想し、真言を誦える。

3 観音菩薩の真言
:ツォン・カパの喉にいる観音菩薩の胸にあるフリーヒ字の回りに真言の環が回っている。
そこから五甘露と光が自分と一切衆生へ降り注ぎ、光が心身に溶け込んで、六道の苦しみが除かれ慈悲が身につくと観想し、真言を誦える。

4 金剛手菩薩の真言
:ツォン・カパの胸にいる金剛手菩薩の胸にあるフーム字の回りに真言の環が回っている。
そこから五甘露と光が自分と一切衆生へ降り注ぎ、光が心身に溶け込んで、すべてが浄化されると観想し、真言を誦える。

「グル・ヨガ」の部分は、ツォン・カパによる加持(浄化)を授かる観想です。
3種類のチャクラ、尊格、色、甘露による加持がセットになった観想です。

ツォン・カパの額、喉、胸にある文殊菩薩、観音菩薩、金剛手菩薩から一切衆生へ白、赤、青黒の甘露と光が順次、そして一斉に降り注ぎ、一切衆生の身口意の障害が除かれ、仏陀の四身を得るための加持が授かると観想します。

次に、ツォン・カパの中へ二大弟子が溶け込み、自分の頭頂へ降りて来ると観想します。
そして、ツォン・カパ対して身口意で(身では五体投地で)礼拝します。

このように、グル・ヨガの基本は、グルに帰依し、加持を受けることですが、さらに、降りてきたグルと一体化することもあります。


ちなみに、ニンマ派の密教としてのグル・ヨガでは下記の特徴があります。

・グルはパドマサンバヴァを集会樹として、自分はヴァジュラ・ヨーギニーとして(灌頂の時は人)観想する
・四つの灌頂として、グルの4つのチャクラ上の種子から光を受けて身口意とアーラヤ識を浄化する
・最後には、灌頂の三昧の状態にとどまった後、グルの胸から赤い光が放たれ、自分の胸に触れると自分が芥子粒のような赤い光の玉に変わり、グルの胸に飛び込み溶け込んで一体となり、空間に融け入る観想をする

ちなみに、ニンマ派でも密教ではなく純粋なゾクチェンとしてのグル・ヨガでは、ア字と虹色のティクレ(心滴・円輪)などの抽象的存在を中心にした観想を行います。

ニンマ派にとっては、「グル・ヨガ」の本質は単なる前行ではなく、心の本性に留まるための瞑想であり、本行の二次第の瞑想以上に重要なものと考えられています。