<つづき>

 

女性従業員は妹にポメラニアンを手渡して

色々と説明しています。

 

姪っ子らも妹からポメラニアンを

手渡されましたが

これまで仔犬を抱っこしたことがあまりないので

どうやって持てば良いのか困惑気味でした。

 

ポメラニアンはメスで生まれて一ヶ月強らしく

まだまだ小さくて若干震えていました。

 

10分近く話し込んでいたので

もれは一旦、小屋から離れて深呼吸です。

 

やはりたくさんの犬が居るので

臭いが凄まじくて

呼吸が浅くなっていたのですね。

 

義弟君も同じだったのか

もれの隣で一服していました。

 

しばらくしてもれが再び小屋の前に行くと

妹が「ちなみに・・・譲ってもらうとしたら

 おいくらくらいですか?」と聞いていました。

 

ついに核心ですね。

 

女性従業員は「ペットショップよりは

 お安くしてて●●万ギルです。」

と答えました。

 

確かに一般的なポメラニアンの相場よりは

若干安いのですが

それでもやはり高額でした。

 

考えてみるということで仔犬小屋を後にしました。

 
すると女性従業員が
「さっきの子の親が居ますよ。」
と元居たケージの方へと案内してくれました。
 
<つづく>

<つづき>

 

すると背後に人の気配を感じました。

 

振り返るととても小柄で

腰の曲がりかけた

年配のおっさん(?)が歩いてきました。

 

おっさんはケージに近づいて覗き込んでは

次のケージへと移動しています。

 

手には金具の付いた棒と

チリトリを持っているので

糞の処理に来た従業員なのでしょう。

 

この施設以外でこの風貌のおっさんに会ったら

間違いなく怪しいおっさんってことで

人間ウォッチングしてしまったと思います^^;

 

おっさんがとあるケージで糞を見つけて

処理しているのを見て

妹や母もおっさんが従業員だと気づいたようで

ポメラニアンの仔犬がいるか尋ねると

「こっちに居ます。」と案内されました。

 

少し離れた小屋に居るようで

着いて歩いていくと4頭の大型犬が

檻の中からこれでもか!

と言わんばかりに吠え掛かってきました。

 

その檻の前を歩いて小屋の前に行くと

おっさんが女性従業員に何か話しています。

 

そして女性従業員が「こちらです。」と

もれ達を呼びました。

 

姪っ子らが大型犬にビビッているので

もれが先頭になって歩いていくと

大型犬は一斉に「殺すぞ!」という勢いで

ガウガウ吠えてきました。

 

檻があるので吠える犬らを余所目に

奥へ歩いていくと

姪っ子らも着いてきました。

 

すると女性従業員が

小屋からポメラニアンの仔犬を

抱っこして出てきました。

 

生まれて間もないというのが

一目でわかるほど小さくて

可愛らしい仔犬でした。

 

<つづく>

<つづき>

 

ダックスはホントに毛色以外は

もれ家で飼っていたダックスにそっくりで

しかももれに対する甘え様を見ると

ホントに生まれ変わりなのでは?

と思うほどでした。

 

しばらくして妹も敷地内を歩いていて

もれの近くに来ました。

 

もれ家のダックスは妹が買って来たので

「このダックス、前に飼ってたのとそっくりやで」

と言うと妹は

「同じ血統なんかもな。」と

とても冷静です。

 

『えぇぇ!?もれがこんなに感動してるのに

 なんでメインの飼い主だった妹が

 こんなに冷静なのか!?』

 

と驚いていたら妹が

 

「うちのダックスもここで買ったから。」

と付け加えました。

 

『・・・なるほど・・・。それで同じ血統で

 そっくりでもおかしくないってことか。』

と納得です。

 

もれ家のダックスの兄弟・姉妹の

孫の世代くらいになるのかもしれませんね。

 

<つづく>

<つづき>

 

施設に到着して空き地に車を停めると

けたたましい犬の声がします。

 

車を降りると50匹近い(もっといたかも)

犬達が一斉にこちらに向かって吠えています。

 

もちろんケージや檻に入っているので

吠えているだけです。

 

近づくと吠える声は減って

ケージにもたれるように立ち上がって

ベロを出しています。

 

どうやら人懐っこいようですね。

 

その後も車が敷地に入ってくるたびに

けたたましく吠えますが

人が降りてくると鳴くのをやめて

愛想を振りまいていました。

 

車が来たら吠えるという習慣なのでしょうか?

 

すると姪っ子らが

「あそこにいる!」と

ポメラニアンを見つけて

ケージに駆け寄っていきました。

 

そこに居たポメラニアンは成犬のようです。

 

もれもふらふらと歩きながら

犬を見てまわっていると

あるダックスフントが目に留まりました。

 

『毛色は違うけど前にもれ家で

 飼っていたダックスに瓜二つだ!』

 

そのダックスは特に人懐っこくて

もれがケージに近づくと寝転がったり

ケージにもたれて立ち上がったりしながら

甘えてくるのです。

 

もれ家で飼っていたダックスは

ワンワンキャンキャンとよく吠える犬でしたが

このダックスは吠えません。

 

育った環境にもよるのでしょうが

吠えずに甘えてきます。

 

猫さま派のもれも甘えられると弱いです^^;

 

『もれ家で飼っていたダックスの

 生まれ変わりなのだろうか?』

などと思いながら

愛想を振りまくダックスのケージに近づきました。

 

<つづく>

以前、姪っ子が犬(というかポメラニアン限定)を

飼いたいとを話していました。

 

その後、母が散歩中のポメラニアンを

見かけたとかで声をかけたのだそうです。

 

どこで買ったのかを聞いたところ

知り合いにもらったというのです。

 

ペットショップでポメラニアンはかなりの高額なので

もらえるのであれば!ということで

母が情報を集めて見に行くことになりました。

 

ちなみに・・・もれはこの日

妹夫婦と姪っ子がもれ家に来る

とだけ聞いていました。

 

妹家族が到着したので

一階へ降りると誰も居ません。

 

『はて?』と思って玄関を出ると

妹の車のエンジンがかかったままです。

 

近づいてみると

「犬を見に行くよ!」と言われ

何のことやらわからないまま

車に乗り込んで出発です。

 

どうやら母が集めた情報では

6月頃に仔犬が産まれるらしく

事前に話をしてみたいのだそうです。

 

その場所の近くにも

犬を販売している施設があるらしく

まずはその施設へ行くようです。

 

もれは猫さま派ですが

犬も嫌いではないので

どんな犬が居るのか楽しみです。

 

<つづく>

 

<つづき>

 

和田氏(わだ)

 

本貫:
 相模国三浦郡和田
 和泉国和田
 安房国和田
現在:
 神奈川県三浦市初声町和田
 大阪府和泉市和田町
 千葉県南房総市和田町
本姓:平氏(桓武平氏三浦氏流)
通字:義、盛
著名な人物:和田義盛、和田昭為

 

三浦義明の庶子・杉本義宗の子・義盛が和田を与えられて
和田義盛と名乗ったのが始まりとされています。
領地の和田は相模国、和泉国、安房国のいずれか不詳です。
和田義盛は源頼朝の挙兵に従い、鎌倉幕府の初代侍所別当に

任じられ、有力御家人となりました。
しかし源頼朝の死後、北条氏と対立し、和田合戦で敗退して

一族の大半が戦死しました。
和田義盛の甥・重茂は北条氏に味方していましたが戦死し
北条氏は重茂の一族に越後国奥山荘を安堵し、和田氏は
滅亡を免れ、三浦和田氏、越後和田氏、庶流の中条氏、
黒川氏、羽黒氏、関沢氏などとして存続しました。
常陸国の佐竹義重の宿老・和田昭為も末裔とされています。

 


渡辺氏(わたなべ)

 

本貫:摂津国渡辺
現在:大阪府大阪市中央区
本姓:源氏(嵯峨源氏源融流)
通字:勝、義、顕
著名な人物:渡辺綱

 

渡辺氏には複数の氏族がありますが

最も著名なのが嵯峨源氏流です。
嵯峨天皇の皇子・源融(とおる)の孫・仕(つこう)が
武蔵国足立郡箕田(現・埼玉県鴻巣市)に下向して
箕田(みた)氏を名乗りました。
箕田仕の孫・綱は清和源氏の源満仲の婿養子となり
摂津国渡辺に移り住んで渡辺綱と名乗りました。
渡辺綱は清和源氏の棟梁・源頼光の郎党となり
頼光四天王の筆頭となりました。
渡辺氏はその後、清和源氏の棟梁を継いだ源頼政に仕えて
頼政が平家に対して挙兵すると従軍しました。
その後も摂津国渡辺津を本拠に瀬戸内海の水軍を指揮し
内裏で天皇の護衛役に任じられるなどしました。
渡辺氏は海上交通を通じて全国に氏族を送り
肥前国松浦氏、筑後国蒲池氏、毛利氏重臣の
渡辺勝などを輩出しました。
徳川氏の譜代家臣である渡辺氏も後裔とされています。

 


亘理氏(わたり)

 

本貫:陸奥国亘理郡
現在:宮城県亘理郡亘理町
本姓:平氏(桓武平氏良文流千葉氏庶流)
通字:胤
著名な人物:亘理宗隆、亘理元宗

 

千葉常胤が奥州合戦で亘理郡などを与えられ、三男・
武石胤盛が亘理郡を相続し、曾孫・武石宗胤が下向しました。
武石宗胤の曾孫・広胤が亘理氏を名乗ったとされています。
伊達稙宗が勢力を拡大すると伊達氏の傘下に入り
亘理宗隆に男児が居なかったため、宗隆の娘婿で
稙宗の子・元宗が家督を相続しました。
亘理元宗の子・重宗の嫡男は伊達氏を名乗ることを許されて
涌谷伊達氏となり、伊達政宗の庶子で重宗の婿養子に
なっていた宗根が亘理氏を相続しました。
 

 

ようやく名前シリーズも終わりです^^;

 

長かった・・・;

 

本姓・名字の由来についてのみ書くつもりが

同じ名字の別氏族がたくさんあって

区別をつけるために

ちょっとした経歴を書いてたのですが

だんだん経歴メインになりかけたりして^^;

 

脱線はもれの十八番ですが

本末転倒になりかけました。

 

次の歴史好きの予備知識のはずが

本編より長くなるという恐ろしい結果にw

 

まあ・・・目標も無くだらだらやります。

武将について知りたければ

Wikipediaや他のホームページ見たら

もっと詳しくわかりますからね。

などと言ってしまったら元も子もないですがw

 

<おわり>

<つづき>

 

留守氏(るす)

 

本貫:陸奥国岩切城
現在:宮城県仙台市宮城野区岩切
本姓:藤原氏(藤原北家道兼流伊沢氏)
通字:家、宗、村
著名な人物:留守政景

 

源頼朝の奥州合戦後に陸奥国の留守職を務めた
伊沢家景を祖とし、子・家元が留守氏を名乗ったとされています。
鎌倉時代中期になると陸奥国の大半は北条氏の所領とされ
留守職は形骸化して没落しました。
南北朝時代、留守氏は南朝に味方して北畠顕家から奉行に
任じられましたが、他の国人らと共に北朝へ寝返りました。
観応の擾乱で留守家冬は足利尊氏方の畠山氏に従いましたが
南朝方の吉良氏配下の国分氏に多くの所領を奪われました。
国分氏を支援する奥州探題・大崎氏によって留守詮家が
切腹させられるなど窮地に追い込まれると

伊達氏から養子を迎えて勢力を維持しました。
14代・留守郡宗、16代・景宗、18代・政景は伊達氏からの
養子で徐々に伊達氏の傘下に組み込まれるようになりました。
国分氏も伊達氏の傘下に組み込まれたため、領土争いは
無くなりましたが小田原征伐に参陣しなかったため
留守政景は改易され、伊達家臣に帰参しました。

 


冷泉氏(れいぜい)

 

本貫:周防国玖珂郡祖生郷
現在:山口県岩国市
本姓:多々良氏流大内氏庶流
通字:豊
著名な人物:冷泉隆豊

 

大内弘世の庶子から7代後の子孫が母方の冷泉家の家号を
冒して冷泉興豊と名乗ったのが始まりとされています。
冷泉氏は水軍の家系で代々大内水軍を指揮しました。
冷泉興豊の子・隆豊は安芸武田氏滅亡後に

佐東銀山城主に任じられるなど重用されました。
陶晴賢が大寧寺の変を起こすと、冷泉隆豊は大内義隆を
守るべく抗戦し討死しました。
子・冷泉元豊、元満兄弟は安芸国の平賀氏の保護を受けて
生き延びました。
成人した冷泉元豊は毛利氏家臣となり、門司城代に
任じられましたが大友氏の攻撃を防ぎきれず、討死しました。
家督を継いだ弟・冷泉元満も毛利氏に仕えて長州藩士となり
幕末に志士を輩出しました。

 


六角氏(ろっかく):佐々木氏嫡流

 

本貫:山城国京都六角東洞院六角堂
現在:京都府京都市中京区六角通東洞院付近
本姓:源氏(宇多源氏佐々木氏流)
通字:綱、高、頼、久など
著名な人物:六角高頼、六角定、六角義賢

 

近江源氏・佐々木氏は4つの家に分かれましたが

六角氏が嫡流とされています。
鎌倉幕府滅亡時、六角氏は六波羅探題(鎌倉方)に
味方したため、討幕派に味方した庶流の

京極氏(佐々木道誉)に遅れを取りました。
室町幕府が成立すると京極氏が近江国守護となり

後に六角氏頼が守護に任命されましたが、室町幕府の
功労者である京極氏には特権が与えられ、近江国内でも
守護不入(守護の支配を受けない特権)が認められていました。
また近江国は比叡山の影響も受けており、領土問題で
京極氏や比叡山と争うことが多い国でした。
応仁の乱では六角高頼は西軍に味方し、東軍の従兄弟・
六角政堯と戦って近江国内の領土を拡大しました。
六角高頼の次男・定頼は足利将軍家の管領代として
伊賀国、伊勢国へも勢力を拡大して最盛期を築きました。
しかし六角義賢の代になると斎藤氏や三好氏の侵攻、
家臣筋の浅井氏の独立などで弱体化を始めました。
嫡男・六角義治は織田氏に敗れて甲賀へ逃れて

ゲリラ戦で抵抗する弱小勢力に落ちぶれました。
豊臣政権下で六角義治、定治は家臣に取り立てられ
蒲生氏、前田氏に仕えて加賀藩士となり、佐々木氏に復しました。
六角義治の弟・義定の子孫はのちに江戸幕府旗本となり
佐々木氏に復したとされています。
六角義治の弟・高一は織田信雄の家臣となり

生駒氏を称して大和宇陀松山藩織田氏、丹波柏原藩織田氏に

仕えたとされています。

 


和賀氏(わが)

 

本貫:陸奥国和賀郡
現在:岩手県北上市
本姓:
 源氏(清和源氏頼朝流)?
 小野氏(横山氏流中条氏(多田氏)庶流)?
通字:義、行、光
著名な人物:和賀時、和賀忠、和賀忠親

 

出自は伝承的な逸話が伝えられている程度の不詳なもので

源頼朝を遠祖とする説、多田氏、小野姓中条氏説などがあります。
鎌倉御家人の中条義勝の次男・成季が和田義盛の養子となり
陸奥国苅田郡を与えられて苅田氏を名乗り、子・義行が
和賀郡に下向して和賀義行を名乗り、義行と弟・義春が
和賀郡を分割統治したとされています。
また和賀義行の叔父・中条家長が稗貫氏の祖となっています。
南北朝時代は北朝に味方して、南朝方の同族・須々孫氏を
攻めて関東管領から和賀郡一円の支配を認められました。
その後も争乱を繰り返し、隣接する南部氏、葛西氏、大崎氏の

介入を受けて、和賀の大乱が生じ、乱後に所領の多くを
南部氏などに割譲しました。
豊臣氏の小田原征伐に参陣せず、改易された和賀義忠は
和賀・稗貫一揆を起こし、南部氏によって鎮圧されました。
南部氏が最上氏の内紛鎮圧に出陣すると、和賀忠親は

伊達氏の支援を受けて挙兵し、再び敗退して自害しました。
和賀忠親の子・義弘と忠弘は生き延びて、義弘は伊達氏、
忠弘は小原氏の保護を受け、大名としての和賀氏は滅亡しました。
 

 

<つづく>

<つづき>

 

遊佐氏(ゆさ)

 

本貫:出羽国飽海郡遊佐郷
現在:山形県飽海郡遊佐町
本姓:藤原氏(藤原北家秀郷流)?
通字:盛、教など
著名な人物:遊佐長、遊佐続光

 

出自は不詳ですが、出羽国の国人領主で荘園を

藤原基衡に寄進して有力国人となったとされています。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて畠山氏に仕えて

河内国守護代に任じられました。
また別系統の一族が能登守護代、越中守護代を務めました。
畠山尾州家に仕えた遊佐長教や畠山総州家に仕えた
遊佐就家などが活躍しました。
能登遊佐続光は畠山七人衆のひとりとして重臣に列しましたが
能登畠山氏の衰退に乗じて能登国支配を企てて追放されました。
遊佐続光は織田氏の支援を受けて能登国へ侵攻しましたが
上杉氏に寝返ったことで織田氏に殺害されました。

 


由良氏(ゆら)

 

本貫:上野国新田郡由良郷
現在:群馬県太田市由良町
本姓:小野氏?
通字:繁、貞
著名な人物:由良国、由良成

 

平安時代前期の小野篁(おののたかむら)の末裔を称する
武蔵七党の横山氏、猪俣氏の一族とされていますが
戦国時代に入ってから新田氏流を称しました。
後に明治政府に新田氏嫡流を申し出ましたが認められず
一般的には小野氏末裔と考えられています。
当初、上野国新田郡横瀬郷(現・埼玉県深谷市横瀬)を
本拠にして横瀬氏と名乗っていました。
横瀬氏は新田義貞の三男・義宗の子・貞氏を婿養子に
向かえて、横瀬貞氏として家督を相続させました。
横瀬貞氏は岩松氏家臣として新田荘へ下向しました。
岩松氏の執事になると五代目の横瀬成繁が実権を奪い
岩松氏当主を監禁して金山城主になり、新田氏宗家の

所領・由良郷から由良氏に改名したとされています。
戦国時代に後北条氏に服従し、由良国繁は小田原城に
人質に出され、小田原征伐で北条氏が降伏するまで
捕らわれたままでした。
徳川家康が関東に移封になると、由良国繁は
常陸国牛久に所領を与えられました。

 


吉田氏(よしだ):土佐吉田氏

 

本貫:相模国鎌倉郡山内庄
現在:神奈川県鎌倉市山ノ内
本姓:藤原氏(藤原北家秀郷流首藤氏流山内氏庶流)
通字:重、俊、正
著名な人物:吉田孝頼、吉田正秋(東洋)

 

山内首藤氏の末裔とされています。
首藤俊宗が足利尊氏に従って戦功を挙げると
首藤氏の一部が領地を与えられた土佐国へ下向し
吉田氏を名乗ったとされています。
長宗我部氏に仕えた吉田孝頼は智謀に優れ、
長宗我部国親の妹を妻に娶って重臣になりました。
吉田氏は大坂の陣で長宗我部氏が滅亡するまで仕えました。
長宗我部氏滅亡後、土佐国主となった山内氏は首藤氏の
子孫で同族にあたり、吉田孝頼の弟・重俊の子孫から
山内容堂の重臣となった吉田東洋を輩出しています。

 


龍造寺氏(りゅうぞうじ)

 

本貫:肥前国佐賀郡小津郷龍造寺村
現在:佐賀県佐賀市
本姓:藤原氏(藤原北家中関白流高木氏流)
通字:季、家、胤
著名な人物:龍造寺兼、龍造寺隆信

 

出自は諸説ありますが、藤原秀郷の8代子孫・季善が
龍造寺村に移り住んだのが始まりとされています。
本家の村中龍造寺氏を中心に水ヶ江龍造寺氏などに分家し
嫡流当主は「家」を通字にすることが多かったようです。
九州千葉氏に仕える国人でしたが、のちに肥前国守護・
少弐氏に仕えました。
村中龍造寺氏の当主が早世するなどして弱体化すると
分家の水ヶ江龍造寺家兼が台頭して大内氏へ寝返り
少弐資元を自害させて独立を果たしました。
しかし旧少弐氏重臣らの反撃で一族の大半を殺害されて
一時的に滅亡しました。
曾孫・隆信は筑後国蒲池氏の支援で再興を果たし
肥前国を制圧すると北九州地方一円に勢力を広げました。
大友氏が島津氏によって弱体化すると大友氏の筑後国へ
侵攻し、大友氏に並ぶ勢力を築きました。
龍造寺隆信はかつて支援を受けた

蒲池氏を騙まし討ちで滅ぼしたことで国人らの反発を招き

筑後国制圧が停滞したところに島津氏の侵攻を受けて

戦死しました。
子・龍造寺政家は勢力をまとめられず、重臣・鍋島直茂が
豊臣秀吉の承認を得て肥前国東部の代理統治を行い
龍造寺氏の滅亡を食い止めました。
しかし龍造寺政家、子・高房の死去で龍造寺本家は
断絶して滅亡しました。
龍造寺氏の旧領は鍋島氏が継承し、龍造寺氏の庶家は
佐賀藩に重臣として仕えました。

 

<つづく>
 

<つづき>

 

山中氏(やまなか)

 

本貫:近江国山中村
現在:滋賀県甲賀市土山町山中?
本姓:源氏(宇多源氏京極氏庶流尼子氏庶流)
通字:幸
著名な人物:山中久、山中盛(鹿介)

 

尼子持久の次男が山中幸久を名乗ったとされますが不詳です。
山中幸久は兄・尼子清定の殺害を企てて幽閉され

子・幸満が家督を相続し、尼子氏家臣に復帰しました。
応仁の乱後に出雲国守護・京極氏の影響が薄れると

国人の独立が相次ぎ、尼子氏に従って鎮圧に当たりました。
尼子経久が月山富田城を攻撃する際に山中幸満も従軍して
家老に任じられました。
代々尼子氏に仕え、病弱な山中幸高は

弟・幸盛(鹿介)に家督を譲りました。
異説では山中氏の地位は低かったとされています。
山中幸盛は尼子義久に仕えて毛利氏と戦いましたが
敗退して尼子氏は滅亡しました。
山中幸盛は三回の尼子再興軍の中心となりましたが
上月城の戦いで敗れて処刑されました。
山中幸盛の嫡男・幸元は別所氏家臣・黒田幸高の
養子になっていて罪を免れましたが、黒田氏が豊臣秀吉に
攻められて滅亡すると9歳で浪人となり

武士を捨てて酒造業を始め、鴻池直文と改名しました。

 


山本氏(やまもと)

 

本貫:駿河国富士郡山本村
現在:静岡県富士宮市山本
本姓:源氏(清和源氏満政流木田氏)?
通字:重、幸?
著名な人物:山本勘助(晴

 

出自、経歴は伝承の域を出ませんが鎮守府将軍・源満政の
玄孫(やしゃご)にあたる源重長が美濃国木田郷に移り住んで
木田氏を名乗り、木田氏の子孫が山本村に移り住んで
山本氏を名乗って代々今川氏に仕えました。
代々の当主は帯刀(たてわき)を通称にしたとされています。
三河山本氏の本家にあたる山本帯刀家は今川氏滅亡後
徳川氏に仕えて越後国長岡藩の家老となりました。
武田信玄に仕えて重用された山本勘助の出自は不詳で
信頼度の高い史料には記録が無く

存在も確証されていません。

 


結城氏(ゆうき);下総結城氏

 

本貫:下総国結城
現在:茨城県結城市
本姓:藤原氏(藤原北家秀郷流小山氏庶流)
通字:朝、顕、綱、義など
著名な人物:結城光、結城広、結城政、結城晴

 

平安時代末期、小山朝光が鎌倉御家人となり

志田氏の滅亡後に結城を領して結城氏を名乗りました。
要職に就いていましたが、当主の早世が続いて衰退しました。
足利尊氏に従って建武政権から離反し、南朝方の分家・
白河結城氏と争い、結城氏惣領の地位を奪還しました。
室町時代初期に小山氏が衰退すると小山氏の家督を相続し
関東八屋形のひとつに数えられるようになりましたが
結城合戦で敗れて再び衰退しました。
家臣の台頭もあり、弱小豪族に落ちぶれていましたが
結城政朝が勢力を盛り返し、戦国大名へと成長しました。
小山氏とは断絶の危機のたびに互いの養子が家督を相続して
共存しましたが、後北条氏や上杉謙信の進出で衰退しました。
小田原征伐に参陣したことで、小山氏、小田氏の旧領を
安堵されましたが、結城晴朝には嗣子が無く、徳川家康の
次男・秀康を養子に迎えました。
結城秀康が松平氏に改めたことで結城氏の家名は消滅しました。

 


結城氏(ゆうき):白河結城氏・白河氏

 

本貫:下総国結城
現在:茨城県結城市
本姓:藤原氏(藤原北家秀郷流結城氏庶流)
通字:朝、顕、綱、義など
著名な人物:

 結城祐広、結城宗広、結城親、結城政、結城

 

下総結城朝広の子・祐広が白河を与えられて分家しました。
白河結城氏、白河氏とも呼ばれます。
鎌倉時代末期に新田義貞に従って鎌倉を攻めたことで
分家でありながら後醍醐天皇から結城氏惣領とされました。
結城親光は建武政権の三木一草に数えられ

兄・親朝は北畠親房、顕家父子の補佐役となりましたが

親光は足利尊氏暗殺に失敗して殺害されました。
結城親朝の家系は奥州で勢力を拡大しましたが

北畠氏と対立して北朝方へ寝返りました。
結城顕朝、小峰朝常兄弟は白河を分割して相続し

互いに嗣子が無い場合、他方から養子を迎えるなど

協調関係を維持しましたが、戦国時代に対立するようになり

佐竹氏、那須氏の侵攻を受けて弱体化しました。
小田原征伐に参陣しなかったため改易されました。

 

<つづく>

<つづき>

 

山内氏(やまうち)

 

本貫:相模国鎌倉郡山内庄
現在:神奈川県鎌倉市山ノ内
本姓:藤原氏(藤原北家秀郷流首藤氏庶流)
通字:清、通
著名な人物:山内経俊

 

美濃国郡司・守部氏の末裔と考えられていますが

平安時代後期に藤原氏流首藤氏を称したとされています。
源義家に従った首藤俊通が山内庄を領して

山内氏を名乗りました。
山内俊通の娘が源頼朝の乳母となり、有力御家人として
伊勢国、伊賀国を領しましたが、三日平氏の乱で領地を
没収され、備後国へ移りました。
室町時代に備後国守護・山名氏の守護代を務め

山名氏が衰えると毛利氏に仕えて長州藩士になりました。
庶流に奥州山内氏、土佐山内氏があり
奥州山内氏は会津郡と桃生郡に分派しました。
会津郡の山内氏は芦名氏に臣従し
桃生郡の山内氏は葛西氏によって滅ぼされました。


山内氏(やまうち):土佐山内氏

 

本貫:相模国鎌倉郡山内庄
現在:神奈川県鎌倉市山ノ内
本姓:藤原氏(藤原北家秀郷流首藤氏庶流)
通字:豊
著名な人物:山内一、山内信(容堂)

 

備後山内氏の庶流で山内宗俊の五男・俊家を祖とする
氏族と考えられていますが、史料に乏しく不詳です。
戦国時代初期、山内盛豊は織田氏嫡流の岩倉織田氏に
家老として仕えましたが、清洲織田氏・織田信長に敗退しました。
子・山内一豊は織田氏、豊臣氏に仕えて遠江国掛川を治める
大名に昇進しました。
山内盛豊の四男・康豊は織田氏に仕えることを拒んで
浪人しましたが、のちに山内一豊の保護を受けて

織田信忠に仕えました。
山内康豊は本能寺の変で織田信忠と共に居ましたが
早々に逃亡しました。
山内一豊は弟・康豊を帰参させて補佐役に任じました。
山内一豊は関が原の戦いで土佐藩主となりましたが
男児に恵まれず、弟・康豊の子・忠義が第二代藩主となり
明治維新まで存続しました。
土佐山内氏の嫡流は「やまうち」、

庶流は「やまのうち」と読みます。

 


山県氏(やまがた)

 

本貫:美濃国山県郡
現在:岐阜県岐阜市山県北野、岐阜県山県市付近
本姓:源氏(清和源氏頼光流多田氏庶流)
通字:特定できず
著名な人物:山県家信、山県虎清、山県昌景

 

源(多田)頼綱の三男・国直が山県郡に住んだのが
始まりとされています。
美濃山県氏は蜂屋氏、落合氏、清水氏、福島氏、平野氏、

関氏などの庶流を輩出しました。
平安時代末期に一族の山県三郎が安芸国に配流となり
安芸山県氏の祖となりました。
美濃山県氏は鎌倉時代末期に後鳥羽上皇に味方して敗れ
多数の戦死者を出し、南北朝時代には同族の
美濃国守護・土岐氏の傘下に入りました。
室町時代中期には美濃山県氏は衰退し、甲斐武田氏を
頼って、甲斐山県氏となりましたが、山県虎清が武田信虎に
成敗され滅亡しました。
のちに武田義信事件で切腹した飯富虎昌の弟・昌景が
山県氏の名跡を継ぎましたが、子・昌満が武田氏滅亡時に
処刑され、一族は各地に散りました。
安芸山県氏は源平合戦で源氏に味方し、南北朝時代には
足利直冬に味方しましたが、直冬の勢力が衰退すると北朝に
帰参し、安芸武田氏に仕えました。
毛利氏が勢力を拡大すると毛利氏に仕え、長州藩士として
明治維新まで存続し、山県有朋を輩出しています。

 


山名氏(やまな)

 

本貫:上野国多胡郡八幡荘山名郷
現在:群馬県高崎市山名町
本姓:源氏(清和源氏義家流新田氏庶流)
通字:義、豊
著名な人物:

 山名範、山名時氏、山名持(宗全)、山名

 

平安時代末期、新田氏の庶流が山名郷を領して山名氏を
名乗り、源頼朝の挙兵に早くから従軍して

鎌倉御家人になると源氏の門葉として優遇されました。
鎌倉時代末期、足利氏に従って山陰地方の守護になりましたが

観応の擾乱では足利直義に従いました。
足利義詮の代に室町幕府へ帰参し、赤松氏、京極氏、
一色氏と共に四職家に列しました。
山名時氏の子・氏清は全国66カ国中11カ国の守護となり
六分の一殿と呼ばれるまでに栄達しましたが惣領の座を巡る
内訌に足利義満が介入し、弱体化しました。
山名持豊(宗全)は勢力を再興しましたが、管領・細川勝元と
対立して応仁の乱が起こりました。
山名宗全の三男・山名勝豊が因幡国守護として
因幡山名氏を起こすと次男・是豊が反発して東軍に寝返り
安芸国、備後国の守護に任じられ、備後山名氏となりました。
応仁の乱後、赤松氏の勢力拡大で嫡流は急速に衰退し
家臣・垣屋氏の台頭を招きました。
山名祐豊が家督を相続すると但馬国、因幡国を

武力で制圧した後、織田氏に臣従しました。
因幡山名氏は尼子氏などからの圧迫で傀儡にされ
備後山名氏と共に毛利氏に臣従しました。
山名豊数が因幡武田氏によって追放され、帰農すると
関が原の戦い後、山名豊国が但馬山名氏の家督を相続し
大名待遇の交代寄合表御礼衆となりました。

 

<つづく>