「⇒←」じゃなく「→⇒」 | Moratoriumer´

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今日も波に揺られて海を漂う。

男と女

異性愛と同性愛

マジョリティとマイノリティ

それだけに限らないんだけど

例えば自分が何かに属するとして

そうではない他に対して働きかけをしたりするとき

うちは向き合わないように気をつけます。

敵対しないように目線を変えるんです。

⇒←

こうじゃなくて




こうってこと。

相手の意見を非難や否定するのはよくあることだけど

それは明らかに前者になります。

うちはそのやり方がどうも上手くできないので

後者を選び

共に考え共に歩みます。

その方が性(しょう)に合ってると思うし。

誰かと話してるときもそうで

色んな目線に立つわけなんだけど

そのためには色んな自分が必要なんだと思いました。

価値観とかそういったものも含めて。

そんなわけでうちは

相手によってアプローチの仕方が一人ひとり異なります。

→⇒

こんなだったり

⇒→

こんなだったり

 →


こんなだったりすることもあるわけで

要はベクトルが向き合わなければなんでもありってこと。

それは意外とおもしろいもので

自分の位置から少し動くことで

同じものでもまた違った姿が見えてきたりします。

そして何より

うちの意見が通るよりも

うちのが正しいと思われるよりも

うちの意見から何か自分の意見を持ってくれることや

うちが自分の思う正しさを貫くことで

自分なりの正しさというものを持ってくれることのが

ずっとうちには楽しく嬉しいことであります。

それは逆もよくあることで

うち自身その経験があったからこそ

そういった視点の調整ができるようになったんだと思います。

さて

今までうちが自分を

「マイノリティだ」

と言わずに

あくまで個の「あめ」として強調していたことには

少しそこが関わっていたりします。

マイノリティだと認識することで

マジョリティと向き合うことになるんじゃないかという

なんとも浅はかな考えがうちにはあったんです。

でもね

マイノリティに入ってマイノリティの道が開けるのもいいし

マイノリティとして意識されることで

マジョリティ側の意識が何か変わるのもいいよね。

ときには

マジョリティの中に潜り込んだり

マイノリティの中に潜り込んだりしながら。

そこにうちは壁を感じないから

というかどっちでもあると思うから

必要なときに必要な視点に立っていけたらと思います。

だから

何かにあえて属すのも悪くない

と肯定的な見地に至りました。

結局そこに依存しなければ

自分というものを見失わなければ

どこへでも行けるんだと

うちは思います。

みんな価値観が違って当たり前。

そんな当たり前のことを

どうしたら受け入れられるんだろう。

どうしたらお互いに許し合えるんだろう。

それはわかんないけど

でもわかっていることは

アプローチしなきゃ何も変えらないってこと。