先月、四國五郎さんの息子さんである、光さんのお話を聴く機会が都内でありました(注)
 
(注)「芸術と憲法を考える連続講座」のうちの11月27日(第23回目:講師四國光さん)実施の講演。タイトルは
「やさしい視線・静かな怒り~詩画人・四國五郎が伝えたかったこと~」、連続講座の主催は東京藝術大学音楽部楽理科、共催:自由と平和のための東京藝術大学有志の会、後援:日本ペンクラブ…でした。

 わたし自身、絵が好きで、かつ…今のように、日本社会が「戦争」へと傾斜している時代に、四國五郎さんについて、あまりよく知らなかったなんて恥ずかしいのですが、それはそれとして、光さんのお話、とても興味深く聴けました。
 
 以下に、その要旨を7回にわたって、紹介します(注)。わたしと同じように、四國五郎さん(の生き方)に関心を持ってくれる人がひとりでも増えてくれたら、うれしいです。
 
(注)…で、いつものことながら、読みやすさ等を考えて、「話し言葉」を適宜「書き言葉」に変えたり、〈小見出し〉をつけたりと、わたしの好きにまとめさせてもらいました(つまり、文責⇒詩乃ちゃん)。まぁ、講演の(忠実な)文字起こしということではなくて、わたしなりの“メモ(要旨、大意)”と考えてもらうとありがたいです。
 
 
講演中の、四國光さん(2019年11月27日、東京藝術大学にて)
 
 
~ 父親からの、ひとこと ~
 
 父の生涯(1924~2014)をふりかえると、絵と詩、よくこんなに広範囲の活動が出来たものだと、息子から見ても思います。まさに89年の人生を「駆け抜けた」という気がします。
 
 2014年に父が亡くなって…、父の死去は、私のサラリーマン最後の年だったのですが、それ以降 一気にいろいろなことが動き始めました。何だか、洗濯機の中で回されている…といった感じです。
 
 NHKでの特集番組、永田浩三さんによる評伝(注)、それから、没後に19回の個展がひらかれました。私自身、そういう番組や評伝を通じて、改めて父の人生を追体験するような気持ちにもなりました。
 
(注)永田浩三著 『ヒロシマを伝える-詩画人・四國五郎と原爆の表現者たち』(WAVE出版:2016年)
 
 父に関する思い出の中で、印象深いのは、小学生のころだったかに、学校でいやなことがあって家に帰ってからのことです。昼間のことをウジウジ言っていると、父は、「小さいことに怒るな」と前置きして、よくこう言いました。
 
 「戦争を起こす人間に対して、本気で怒れ」
 
 ふつう…小学生の息子に、こんなこと…言いませんよね(笑)。
 
 けれども、父が言うには、自然災害も人々に被害をもたらすが、戦争は、それ以上にものすごく多くの人を不幸にする。そして、世の中には、そういう戦争を起こそうとする、本当に悪い奴がいる…、くずぐず言っていないで、戦争を起こそうとする人間に対して、本気で怒れ…ということでした。
 
 家に帰ってぶつぶつ言っている小学生に、父親がこんなことを言うなんて、ちょっと驚いてしまうのですが、でも、父にしたら、子どもが小さいうちに大事なことを伝えようとしたのだな…と、今になると理解できます。
 
 ある意味で、おやじらしい言葉だと思います。
 
 ~ 広重画集を模写した少年時代 ~
 
 父は、小さいころから絵描きになることしか考えたことがなかったそうです。そのあまりの絵のうまさに、美術の先生が、父だけをおとなのためのデッサン教室に連れて行ったこともあると聞いたことがあります。
 
 その父の画才を示すエピソードとして、13歳の頃、父は(歌川広重による)東海道五十三次の画集を見る機会がありました。それに強い関心を持った父は、「1ケ月後に必ず返すから」と約束して、それを借り受けたそうです。そして、その55枚の絵すべてを1ケ月で模写して、持ち主に返したそうです。
 
 13歳の、イガグリ坊主が、毎日…1日2枚のペースで、
 その画集を模写していたのですから、父の…絵への情熱がうかがわれると思います。
 
 但し、「1ケ月で、55枚を模写」と聞くと、ものすごいペースのように感じられるかもしれませんが、父は、10代の頃、多い時で1日200枚もの絵を描いていたそうです。
 
 そうは言っても、父は裕福な家庭に生まれたわけではありませんでしたから、いわゆる絵の専門教育は受けたことがありませんでした。だから、家にある、紙と言う紙、あらゆるところに絵を描いていたようです。
 
 
平和祈念資料館で開かれた「四國五郎展」より。2001年に撮影された四國五郎さんの
写真パネルがアトリエ中央に立てかけられています。写真、左上に「陶板」が小さく
写っていますが、これについても四國光さんは講演で話をされました。
 
 ~ 「軍隊」への嫌悪感 ~
 
 父の生涯を考えるときに、“3つの戦争”が大きく影を落としています。
 それを順にお話します。
 
 まず、ひとつめが、軍隊生活(1944~1945:四國20~21歳)でした。 
 
 1944年10月に父は徴兵されて、広島の第五師団に配属になります。ちなみに、このとき、まったくの偶然なのですが、福島菊次郎(1921~2015)さんも同じ部隊に配属されていたそうです。2人とも、その時のことは、気づいていなかったようですが、でも、菊次郎さんにすれば、同世代の中に、何か…絵が好きな、ちょっと変わった青年がいたなぁ~ぐらいの記憶はあったかもしれません。
 
 その後、父は中国大陸の満州に送られます。
 
 そこで、父の部隊がやっていたのは「肉攻(にくこう)」と呼ばれるものでした。それは、かんたんに言えば、飛行機で敵艦に突っ込む特攻の“陸上版”です。つまり、満州においてもご多分に漏れず、兵士は、ある種の消耗品として取り扱われていたということです。
 
 「肉攻」は、具体的には、枕ぐらいの大きさの…通称「あんぱん」と呼ばれた爆弾を持って、敵の戦車下にもぐり込み、そこで起爆装置のスイッチを入れて、兵士も戦車もろとも 木っ端みじんに吹っ飛ぶというような攻撃です。
 
 「四國、次はおまえがやれ」と言われて、「あすか明後日に〈肉攻〉に出る」という時に、
 敗戦になりました。
 
 戦場では、「兵士のはらわたが千切れ、首のふっ飛ぶ中を、死体を踏んで逃げ回った」と父は語っていました。また、軍隊生活についても「いつも顔の形が変わるぐらいに殴られた」というのが、父の口癖でした。
 
 父にとっては、「戦場」そのものもそうですが、「軍隊」という組織も、
 心の底から許しがたいものだったようです。
 
 ふつう、「戦争」と聞くと、実際に銃弾の飛び交う「戦場」を思い浮かべると思いますが、父は「軍隊(軍隊生活)」が、まず嫌悪の対象でした。
 
 そういう思いは、漫画家の水木しげる(1922~2015)さん、評論家の鶴見俊輔(1922~2015)さんなどの書かれたものにも同じようなこと、つまり「軍隊」という非人間的な組織への嫌悪感が書かれています。
 
 あるいは、作家の野間宏(1915~1991)さんに『真空地帯』という小説があります。1952年に映画化されましたが、あれを見ても、生理的な感覚として、軍隊のむごさ、いやらしさが実感として、よくわかります。
 
(続く ⇒ コチラ )
 
 
菊次郎さんと中村杉松さん2017年3月11日ブログ
菊次郎さんの…優しさ   2017年3月15日ブログ