日本国憲法の中で、往々にして〈9条〉に光が当たることが多いです。
2004(平成16)年に〈9条〉の会ができ、それ以降全国で「○○9条の会」が生まれています。
でも、日本国憲法の中で、「いちばん大切なことは何か?」と聞かれたときに「9条よりも大切な条文がある」と、わたしに教えてくれたのは、伊藤真さんです。
もちろん、“大切”というのは個人の価値観ですから、人によっては14条(法の下の平等)が大切と思ったり、19条(思想・良心の自由)がいちばん大切だと考えたり、さまざまでしょう。
わたしが伊藤真さんの“おっかけ”をしていたことがよくわかる1枚。これ…伊藤真さんが憲法関係の集会などで話しているのでありません。大手予備校(代々木ゼミナール)で「夢をかなえる勉強法」という題目で受験生相手に講演をしているところです…。伊藤真さん、ステキ~!(2014年6月27日)
伊藤さんがしてくれた話を、わたしなりに説明すれば、
◇9条が守られているだけでは、個人は幸せにはなれない◇
ということです。
戦後70年というものをふり返ってみても、日本は敗戦から2017年に至るまで…わたしたちは戦争を体験していないわけです。9条の表現を借りれば…「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」の無い状態が(いちおう形だけは)守られて来たと言えます。
でも…そういう〈9条〉が条文としてあり、その状態が守られていて、人々が幸せな生活を送れているかと言えば、そうではありません。いまは3万人を割って、年間の自殺者数は2万人を超えるレベルで推移しているそうですが(注:それでも1日当たりの自殺者数は「50人」を超えます)、それだけの人たちの命が(戦争が起きているわけではないのに)失われているのです。
「戦争が無くても、年間20000人以上の人が自ら命を絶つ国」
このことを考えると、「戦争をしない」というだけでは、人々が必ずしも幸せに暮らすことができないことに思い至ります。
そこで出て来るののが…伊藤真さんが「日本国憲法の中でいちばん大切なこと」として取り上げる憲法13条の冒頭、次の文言なのです。
「すべて国民は、個人として尊重される」
「戦争が無い」ということはとても大事なことですが、しかし、「戦争が無い」ことだけがわたしたちの最終ゴールではなく、その社会の中で、一人ひとりが「個人として」尊重され、それぞれが…自分の好きなように、その人に合った、その人が望むような生き方が出来ることが、人間らしい生き方として必要なのです。
伊藤真さんは、
「9条」は、「戦争をしない/戦争が無い」という状態での平和だから、
それは「消極的平和主義」であり、
「13条」は、「個人が自分の望むような生き方ができる」状態での平和だから、
「積極的平和主義」とでも言うべきものだ
と教えてくれました(注)。
(注)安倍総理は、この「積極的平和主義」の言葉を伊藤真さんが使うような意味では
使っていないそうで…下に述べる自民党憲法草案と並んで注意しないといけません。
まぁ…そうですよね…。
わたしたちの社会で、戦争や貧困、病気などさえ無ければ、それで人々が幸せに暮らすことが出来るかと言えば、そうではありません。自分の好きなことが出来、自分の望むような生き方が出来て、はじめて個人は幸福を実感できると思います。
それを考えると、わたしも伊藤真さんが言われるように…
〈9条〉で、戦争の無い社会を作るだけではなく、さらにそこから(!)
〈13条〉に基づいて、一人ひとり(の自由な生き方)が尊重される社会
を作って行かなければいけないと思います。
そして、ここからが今日の本題なのですが…(笑)
この憲法13条も、安倍政権下で危機に直面しているのです。つまり、自民党の改憲グループは、この現行の13条も骨抜きにしようとしているのです。そのことは自民党の憲法草案を見れば明らかです。
憲法13条 : すべて国民は、個人として尊重される。
自民党案 : 全て国民は、人として尊重される。
「え…何か、ちがうの」
「〈個人として〉尊重されると、〈人として〉尊重されるとでは、
特にちがいは無いんじゃない」
と思う人もいるでしょう。でも、この違いは、
◆ 月とスッポン
◆ パソコンと電卓
◆ カニとカニ風味かまぼこ
ぐらいちがうのです。
自民党案の「人として尊重する」というのは、
「おまえのことをイヌあつかいやネコあつかいはせずに、人としてあつかってやる」ということです。
…でも、それって…そんなに喜べることでしょうか? わたしたちは「イヌ」でもなく「ネコ」でもなく…もともと「人」なのですから、「人としてあつかう」というのは…まぁ当たり前のことですよね。「人」なのに「イヌ扱い」されては困ります(ワンワン!)。
それに対して、現行憲法の…「個人として尊重する」というのは「あなたのことを、守良詩乃さんとして尊重しますよ」、「あなたの生き方、あなたの考え方を、あなた個人というものを価値のある存在として認めますよ」ということなのです。
そのことを…自民党案に当てはめてみると、「あなたのことをイヌあつかい、ネコあつかいはしないが…(人としては認めてやる)」⇒「あなたの生き方、あなたの考え方、あなた個人を価値のあるものとしては認めませんよ」「あなたを人あつかいはしますが、“守良詩乃さん”として尊重するということはしませんよ」ということにはならないでしょうか。
「個人として尊重する」の条文から、「個」の1字をコッソリ取り去って「人として尊重する」という…中身はまったく別のものに作り変えた自民党の憲法草案は、きわめて悪質で、かつ粗悪なものだと思います。
ここで――わたしは今年の憲法記念日に書いたこと(→ コチラ )を思い出します。
「そんな大それた場所に“真実”は鎮座(ちんざ)しているのではなくてね…、線路の向こう側、何気なく顔を上げたところに、ゴロンところがっているものなのかな…って、思ったのです。要は、わたしたちが、その『ゴロンところがっている』真実に、いつ気がつくのかということですね? おそらく…“真実”のほうは『どうして…こんな近くにいるのに、オレのことに気がついてくれないのかなぁ』などと思っているのかもしれません」
自民党の稚拙&悪質な憲法草案だって、今から5年前に、わたしたちに提示されているのです。でも、伊藤真さんが警鐘を鳴らすように、その危険性に気づいた人は、いったい…どれぐらいいたのでしょうか?
“真実”は、わたしたちの正面にさり気なく立っているにもかかわらず、その“真実”の姿に気がつかないことがある――そんなことを、わたしはあの石像から教えられたし、伊藤真さんの話を聞いて、 もっともっと“真実”に敏感にならないといけないなぁ~と思った次第です。