〈3.11〉の福島原発事故以来、私は、原発(=核)という、人間が作り出したとんでもない負の遺産、そして、特定秘密保護法や集団的自衛権といった、憲法を破壊し、私たちの住む社会を根幹から脅(おびや)かすような水面下の動きについても、深い危惧(きぐ)の念を持つようになりました。
その意味では、学生時代の…何というか、20歳そこそこの文学好きだったあの頃の私と、ここ数年での私とは明らかに(社会に対する姿勢は)違って来ています。
その学生時代に、ある義足工場の話を聞いて、いささかショックを覚えたことがあります。この話は、すでに「世界一小さい図書館」のノートには書いたことなのですが、まだ知らない人もいると思うので、もう一度簡単に書きます。同時に、これはあくまでも過去の一事例ですので、いま現在の福祉関係の仕事に就いている人たちに対するコメントではありません。いちおう注意して読んでください。
◆
海外にあった、ある小さな町工場が、地雷で足を失った人のために義足を作っていたそうです。そして、その工場の裏手では義足とは異なる別のものが作られており、その「義足とは異なる別のもの」とは何か…ということが、私たち学生はゼミの先生からクイズ形式で聞かれたのです。
例えば、五択ふうに言えば…
ア 片足を失った人でもこげる自転車
イ 足で踏まなくてもよいミシン
ウ 折りたたみ式ベッド
エ 歩行を助ける杖
オ その他
だいたい…こんな感じの出題でした。私もほかのゼミ生も色々と話し合いました。「ア」かなぁ…「エ」かなぁ…、あるいは「オ」の“その他”かなぁ、でも…“その他”って何だろう…という具合です。
当時、正解の「オ」を当てられた学生はいませんでした。
その義足工場の裏手で作られていたものは…地雷だったのです。
◆
中学校では、社会科で日本国憲法を習います。そして、日本国憲法の特徴として、
平和主義
主権在民
基本的人権の尊重
の3つを教えられます(この“3大特長”は今の教科書や社会科資料集でも変わらないようです。不思議なことに、私は中高時代に〈立憲主義〉という、憲法の最も大事な原則を習いませんでした)。
また、憲法「前文」の、こんなフレーズも誰しもが目にしたことはあるでしょう(現代かなづかいで書きます)。
「日本国民は、恒久(こうきゅう)の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従(れいじゅう)、圧迫と偏狭(へんきょう)を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」
【日本国民】は、永く続く平和を願い、平和を愛するいろいろな国の人たちの公正と信義を信じつつ、【われらの安全と生存】を保持しようと決意する――私なりに、上のフレーズはこのように読めます。
つまり…(主語や目的語に注意すると)
「日本国民」は、平和を願う
「ほかの国の人たち(諸国民)」のことを信じながら
「われらの安全と生存」を保持しようと心に決めた
と、私たちは憲法前文で宣言しているのです。
では、ここでの「われら」って、「わたしたち…日本人」のことだけ?それとも世界の「ほかの国の人たち」のことも含むの?…と考えると、「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」と日本人は思うわけですから、当然…「われらの安全と生存」には、シリアやアフガニスタンや、その他世界のあらゆる国の人たちが含まれるはずです…よね?(前文のほかのところには「私たちは自分の国のことだけを考えてよその国のことを考えないというようなことはイケナイことだよ」とも書かれています)〔注〕
〔注〕「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」
でも…と、ふとそこで私は考えるのです。
実は、わたしたち日本人というのは、あの…「義足を作りながら、工場裏手では地雷を作っていた町工場」と同じではないかと。
だって、そうですよね、私たちは憲法でおもて向き「平和主義」を唱えていますが、その裏では、海外に向けてせっせと武器輸出をたくらんでいるのですから。
もし、私たちが、
本当に心から平和を願い、
同じように平和を愛するいろいろな国の人たちの公正と信義を信じ、
【われらの安全と生存】を保持しようと決意するなら――
その“地雷密造工場”のように、「平和主義」の看板を掲げつつ、
その裏で武器を輸出するようなことは出来ないはずですよね…。
このことに気づかされてから、私は深~く悩んでいるのです。
◆
私が心から尊敬する小出裕章さんは、原発問題について、「ワタシハ(政府ヤ電力会社ニ)騙サレテイタノダ」と言う…あなたがた一人ひとりにも(騙されていたなりの)責任があるのだと、折にふれて書いています。
原発について、私も騙(だま)されていた側の大バカ者でした。チェルノブイリ原発事故のことは知りながらも…「でも…日本の原発はちがうんだ」「日本の原発は、海外とは比べものにならないほど、高い安全基準で作られていて、安全なのだ」…こんな“風評”に、まんまとダマサレテいたのです。
では、騙されていた(いる)のは、原発に関すること…だけなのでしょうか?
「憲法で平和主義を謳い、さきの大戦から70年あまり、唯一の被爆国ながら、一貫して平和を訴え続けている国として、日本は国際社会から尊敬をもって見られている」
こんな言い方を、私たちは信じてよいのでしょうか?
「日本の原発は、海外とは比べものにならないほど、高い安全基準で作られていて、絶対に安全なのだ」
そうではなくて、原発に関する上の“風評”と同じく、実は「日本は平和国家だ」なんてことも、トンデモナイ“風評”なのではないのか――シリアのアレッポで、96人もの子どもたちが空爆で殺されたというニュース(29日)を聞きながら、私はひとりでそんなことを考えています。
いったい、この“国”は、これからどうなってしまうのか…、いえいえ「どうなる?」なんて
他人事みたいなこと言っていたら、福島菊次郎さんに(優しく)怒られそうです。
「この社会を、目の前の現実を、あなた自身はどうしていきたいのか、どうしていくのか、
そういうふうに問いなさい」――菊次郎さんなら、たぶん、こう言うでしょう。