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拘束することが愛の本望であると認識する者に愛される者は、自分の自由を生贄として犠牲にせねば、永遠に相手から搾取され続ける愛され方を余儀なくされてしまうであろう!
人としての心の冷たさと呼べるものは、本人に対する厳しさから生じるものよりも、意外と甘えから生じている冷たさの方が、周囲から見ればまだ醜悪に見えてしまう例が少なくない。
憎しみや葛藤と呼べるものと時間的な折り合いをつけて否応なしに妥協した人間の心の中は、酷く穏やかで凪いでいる静けさを擁するが、それは人から受け取る愛はあっても、自分の方から分け与える愛の力が明らかに欠乏しているのである。
相手の精神的な自立と尊厳を高める目的ではない、一方的で感情的に振り翳される権力的な厳しさと呼べるものは、概ねその人間にとっての登攀できない精神的な幼さから生まれているケースが多く見られるのである。
世間的な白眼視を送る傍観者が日和見的に映るのは、侮蔑する対象にどこまでも「無関心」でいようとするほど、傍から見ればより「客観的」に見えるのである。
「自分は悪くない」として心理的に転嫁しようとする目論みがある甘えとは、表面的に見ると対象への「憎しみ」として顕在化されているケースが少なくない。
もはや自らに恥じることなく同情を公然と求める心は、自らが恵まれていない者であることに対して一切の慈悲と挫折を擁していないのである。
捧げられた「憐れみ」が「蔑み」として認識される者の心は、自らが弱者であるという事実と平和的で良好なる関係を構築していないのである。
創作を永遠に貪欲に追求しても「満たされない衝動」がある芸術家は「我道」を進み、逆に創作によって安易に満たされようとする凡俗な芸術家は大衆に迎合する「曲学阿世」の道を進むのだ。
自己を変革させるための周囲からの声と呼べるものは、概して本人にとっては「耳の痛い」批判的な事実として受け止められてしまうものである―。このことを理解すれば、自分を前向きに変えるためには、いかに周囲に対して謙虚であることが必要になるかが分かってくる。
確固とした自分に対する信条を強く持つ人間は、その軸となる「信」の部分に関しては、一切の他者への慫慂と強要、迎合と追従を求めることがない―。「来る者拒まず、去る者の背を追わない」のが、本当のぶれない「信じる」という意味を示すものとして。
自分の確固とした意見を持たずに、唯々諾々と相手の主張を受け入れてしまう「人の良さ」や「優しさ」に似たものでは、許される悪意を以て周囲から軽微な批判や制裁を受けることよりも、更に酷い深刻な事態を引き起こしてしまうケースをよく見かけるのである。
不幸による痛みを和らげるためには、清貧で多くを求めない人生の美徳が必要になる―。しかしその美徳の基盤には、自らを犠牲にすることを厭わない、虚偽から生じた愛が必要である。
苦悩を乗り越えて自分や人に対して一切の甘えを許さない自立した者ほど、無条件に相手から捧げられる愛を 以て満たされるどこか、逆にそれを有害だとして拒絶する反応を見せる時が少なくない。
若き頃に否応なしに背負った苦悩や苦役は、本人が一廉の者になって、社会から評価される地位を得た時に、周囲からの称賛から高転びせず、どこまでも「謙虚」でいられるところに最大の利益が存在するのである。
激し く対立する二つの意思や意見が火花を立ててぶつかり合う際に、それを客観的に傍観する「第三者」的な立ち位置こそが、「哲学者」と呼べる者が立つ場所なのである。
同情されることにもはや自尊心が傷つかなくなった時に、人は自分を信じる矜持を見失い、処世としての「黒は白」と言わなければならない時に、良心を痛めることすらしなくなるのである。
自分にとって都合のいい悲しみや辛さだけを後生大事に覚えていて、それを以て自分を悲劇の主役に祀り上げようとするのは、要諦としては当の「自分」は一切悪くなかったとして、自分を省みずに自分を責めることをしなかったためにある―。こんな人間ほどあまり社会性なく、「人の話」を聞こうとしない傾向が見られる。
心の中に断じて「許せないもの」を抱えている傷ついた者達には共通点がある―。それは彼らが人とのやりとりや会話の中で、絶対に「自分のことを話さない」ということについて。