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人は一人の異性をを終まで一途に愛し抜くためには条件がある―。その異性を愛するまでの恋の数が極めて「少ない」ことでそれは成就されることであろう!
素人の目からすれば、いとも簡単そうに見えるものほど意外と奥が深く映るのは、そのもの自体がその道の「達人」によって生み出されている、反駁のない理にかなった原理が働いているためにある。
真なる優しさとは何か―。それは自分を犠牲にすることでも、惜しみなく一方的に与えるものでもなく、相手を変えようとせずに、自分と他者との「違い」と呼べるものを心の底から尊重することができる、その人間の「為人」に宿るものが真実のものとして―。これを優しさと思わない人間ほど、心のどこかで善を偽って認識している部分が確かに存在しているのである。
受け身な人間には共通点がある―。それは自分以外の人間が犯した失態を厳しく譴責できる正しさを有していても、当の 自分が犯してしまった失態について、どこまでも譴責できるだけの正しさを有していないことについて。
精神的に脆弱な者ほど、不意に傷ついた時に強い意思における抵抗を示すのではなく、自らに執着する気質に支配される―。こんな人間ほど傷つく度に自分の心の「内側」に自らを絶対的な「王」とした居場所を作って逃避しようとするのである。
努めて明るく振る舞おうとする空元気 から生じる高笑いは、その心の奥底に、自分に対する深い失望と、他者に向けられた残酷なまでの憎しみが激しく渦巻いている―こんな人間ほどどちらかと言えば受け身な人間で、それがために自分を責めきれるだけの潔さを何一つとして有していないのである。
決して正しいことではないと良心が痛む心理状態で享受する快楽が麻薬的なのは、本人の理性ではなく欲望を禁じられるほど酷く拍車がかかる一方である。
その人間にとっての知性の鋭さが暖かな血の通わない狂気に見える時、人は彼を極めて奇異として畏敬をする―。そして彼に対しての惻隠の情を持てないがために、どうしても本人は孤立してしまう結果となる。
「偏見」と呼ばれるもの―。その冷徹な視線を送る者にとっては、自分は極めて正しいという色眼鏡をかけてものを見ていることに気がついていない―その度合いが本人にとって残酷なまでに極めて奇特なものとして映し出されているのである。
我々人間にとって真に滅ぼすべき敵とは、我々自己にとっての軽薄さの中にではなく、寧ろ貴ぶべき自尊心の中に潜んでいる―。その中に殴られたままで済まさない、報復を企てる邪な思想が根付くのである。
「天才の気質」―。それは快楽に順応する中にあるのではなく、一般的な常軌から逆行する狂気の中に存在しているのである。
人を品よく笑わせることができる人間の諧謔的な愚かさの根底には、その人間にとっての恐ろしいまでの研ぎ澄まされた鋭い「知性」が隠されているのである。
「どうせ私なんか」と臍を曲げる求愛は、捧げられた愛の花束を無償で受け取りたい思惑がある―。しかし自分の方から無償で捧げられる愛が僅かにもあるのなら、「どうせ私なんか」という自分を愛さなくても生きていける強かさを得ることができるであろう!
「こんなことを言えば相手はどう思うのだろう」という配慮が本物の優しさに繋がらないのは、その配慮がその人間にとっての気の弱い怯懦から生まれているためにある―。こんな人間ほど何かにつけて受け身であるがために、愛するということの本質や意味を勘違いして認識している例が多い。
自分をさらけ出して表現するのが億劫なのは、本音や本当の姿を人に見せてしまうことで否定された生々しい傷跡が心の中に残っ ている―。そんな気弱な絶望が、周囲から見てその人間にとっての品行方正な純粋さに見えている例が少なくない。
世の中に正しいことは何一つとしてないと悲観する時の心理ほど、自分は絶対に正しいと信じて、自分自身の過ちに対して客観的でいることが難しいのである。
傷つけば傷つくほど頑固になって人の言うことを聞かず、自分を特別だと思うようになる人間の特徴として挙げられるのは、かつてその人間が望むものをすべて与えられたという、甘やかされて育った過去があることにある。
人は弱さから自分に執着してしまうほど、人に対して無償で捧げる愛を一切放擲してしまうのである―。このような人間ほど自分こそが選定されし特別な存在であると認識しているのである。
人に対する失望や厳しさから求めてしまう見返りがある以上、その人間にとっての優しさや生真面目さとは、単なる「義務感」から生じている例が少なくない。
自分は決して盲目ではないと信じて疑わない時の心理ほど、視野の狭い盲目へと陥っていることに気がつかない人間が少なくないのである。