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人格を否定されて精神を病んだ人間が自分の心を守ろうとする時の仕草や態度は、傍から見れば皮肉にもその人間の人としての「冷たさ」にしか見えないのである。
傷つく程人は最初利他ではなく利己に走る―。心の傷を登攀できない間は、その行動は主立って本人にとっての自らを防衛するための心の働きとして表現されるのである。
常識と呼ばれる古臭い考え方からいかに荒々しく逸脱するかを考えることが、背伸びして世間に背を向ける、萌える若者達の栄誉ある自己主張の方法として。
生真面目に生きようとするほど世間と呼ばれるものが冷たく間違っているようにしか見えない時ほど、人は世を渡る上での「要領」と呼ばれるものと懇ろにならねば余計に傷ついてしまう結果となる。
故意に犯した失態について堂々と呵責なく開き直るためには、人はどこまでもその事実に無関心を装わねば、善良な者ほど良心の痛みに耐えきれないのである。
過敏な羞恥心が本人にとっての許し難い自尊心に繋がる場合、本人はその事実について極めて頭の堅い聖職者のような「生真面目」な関係を築いているのである。
自分は絶対に正しいと思っている者に間違いを告げるためには、伝える方が多少遜って相手を持ち上げる形で伝えるのがよい―。伝える本人が「正しい」と思う時は、特にそうだ。
気持ちの弱さがその人間にとっての表面的な優しさに見えてしまう時ほど、受け取る本人が人としての暖かさに飢えて孤独に喘いでいる心理が働いているのである。
本当は関心のあるものに無関心でいようとする狭く小さな田舎染みた世間に対しては、高圧的に立ち向かうほど逆効果で、とにかく平身低頭で渡らねば逆に村八分に合うケースが少なくない。
善良な小心者にとっての最大の恐怖と呼べるものは、「普通」という極めて無害で善良な枠組みから逸脱してしまう全てのものを指し示すのである。
どんなことでも唯々諾々と受け入れてしまう人の良さが優しさとは程遠い、単なる善良さの皮を被った偽りに過ぎないのは、人に親切で優しくしようとする健全で強固な意思からは断じて生まれていないためにある。
傷つけられて人を憎み、無情に時が流れて感情が風化して希薄になる人間の心理にはある特徴がある―。それは彼等に率先して人を導いていくという、前向きで牽引する力がないことについて―。このような部分が傷つけられて人を憎んだ人間達の人生を「他人任せ」にしているのである。
潔癖意識が強すぎて逆に病的に映る人間の深層心理は、常に自身にとっての心の許し難い不安と恐怖に精神が戦慄している事実が洞察できるのである。
「こんなことをすれば相手はどう思うのだろう」とする心理的な不作為による配慮よりも、実際に相手のために行動して施すことで失敗する方が、案外相手を不快にさせない例が多く見られるのである。
傷ついて斜に構えることで人は「表面的」に美しいものしか愛せる勇気がなくなってしまう―。つまり外部に囚われることなく人間の本質と呼べる深層を愛せる強さとは、精神的に真っ直ぐな心の持ち主に宿るのである。
世の中や人を斜に構えて見ることしかできない屈折した心は、一切の嘘のない純粋で美しいものに求愛 をしている心理が見て取れるのである。
いつ起こるか判らない奇跡の恩恵を最大限に享受するためには、我々無力な人間は常に確定することを放棄した不安定な風下の立場に立たされる羽目になる。
心理的に卑下するものを持たねば自尊心を保てない時ほど、人は卑屈さの前に無傷のままに屈しようとする冷酷さを持つのである。
保身ための計算高さと呼べるものは、積極的に逃げずに物事に取り組んでいこうとする姿勢の者と比較して、まだ何かとその人間としての愚かで滑稽な「底の浅さ」を露呈してしまっている部分が多々見られるのである。
虚栄心の強い部分に過度の栄誉と称賛を求めることは、その内実をよく知る者からすれば、単に本人にとっての「自信のなさ」を露呈しているようにしか見えない。