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抑圧された許せない感情に支配された無辜な心が、幼げな「緘黙」を貫くのは、周囲が自分に対して無理解を示すことに対しての抵抗ではなくて、自分の方から周囲に対しての理解と愛を求める意思が確かに不足しているためにある。
聖職者の「仮面」が外れる時―。それは悪と呼べるものを立場的に突っ撥ねきれない時に感じる良心の痛みの中ではなく、聖職者である自分に救いを求めてきた迷える弱者に対して、どこまでも自分との間に立ち入ることを許さない、救いきれない一種の打算的な「線」を心の中に引いた時にある。
自分を煽てる「女」という華が周囲になければ呑むことができない、うだつの上がらない男達の酒とは、彼等の自分は特別だという虚栄心が強ければ強いほど、酒に呑まれてしまう結果となるのである。
満たされないことを条件に、他人の所有を容易に侵奪することに胸を痛めることもない者は、望めば望むだけ欲しいものが何でも手に入るという環境に身を置くことで、ますます罪の意識なく侵奪を繰り返すようになるのである。
自分の思い通りにならないことで醜い感情を剥き出しにして癇癪を起こしてしまう者は、その心の中に「こうでなければならない」という何らかの愛着を確かに宿しているのである。
見返りを一切求めることなく更生を果たすためには、臆病な者ほど自らの内部で「禁じ得るもの」を持たねば到底長続きしないおこがましさがある。
相手の型破りな威勢の良さを斬新なものではなく「生意気」だと受け取ってしまう者の心の中には、ほぼ確実に「乃公出でずんば」の精神が宿っている。
蹂躙された母国に対する愛国心とは、純潔で穏やかに母国を愛するよりも、蹂躙した他国を憎み続ける方がまだ長続きするのである。
恋を繰り返す中において、最初女性は男性の「経験の多さ」を愛するが、繰り返す恋に痛手を負って傷ついていくことで、自然と男性の禁欲的で比丘のような「貞操の固さ」を愛するようになっていく。
男の浮ついた軽々しい遊び心より、男の物憂げな哀愁を愛するようになる時、女という生き物は心の傷を癒すために、例外なくその人生で「酒を呑む」よう になっている。
自分にどれだけ落ち度があったとしても、それに向き合わず周囲に責任を転嫁してしまう卑劣な者は、断じて最後まで「人の話を聞かない」という傾向が強い。
卑劣で間違っている相手を相手の頭で考えさせる形で反省と更生を促すためには、対立する自己の土俵の上ではなく、相手が得意 とする土俵の上で相手を完膚なきまでに打ちのめすことが必要となる。
不真面目に生きてきた者より、生真面目に生きてきた者の方が、狷介なる老年期にさしかかると、未知なる「新しいもの」をその頭で受け入れることに対して拒絶してしまう反応を示す時が少なくない。
主体性のない者にとっての自由とは、案外解放された青天井の自由ではなく、羈束された制限のある自由の中にある。
人間と呼べる存在は不思議なもので、絶対的な存在に肖り縋ろうとするほど、自然と自分の頭で思考するという行為を喪失する―つまり人間とは自らの意思で選択し、倒れぬようにとバランスを取って生きようとする状態が、最も自らに対しての思考するという負荷をかけて成立しているのである―「生きる力」とは具体的にそのような力を指すのではなかろうか?
絶対的な正義の力ではなく、必要悪によって世の中が裏から是正される世の姿とは、その表面は酷く理想めいた平和的な姿に映るのである。
心の底からそれまでの愚昧を悔いて更生することができる者は、皆その心に人に対して無償で捧げられる愛を有している―このような愛を持たない人間ほど更生しないのは、その者が決まって「受け身」な人間だからである。
あらゆる真理を追究した求道者が晩年に人里離れた田舎に隠遁するのは、その者の凌駕した英知が逆に世に出ることで、世の中の全てを覆して否定してしまう危険性を孕むがために、有害なものとして後進から嫌厭されるためにある。
自分に失望して自信を持てない者が、不自然に自意識を過剰に高めることで、皮肉にもそれは周囲から見れば単に滑稽な「挙動不審」な姿にしか映らない場合が殆どである。
人は意外と不真面目に適当に生きてきた者よりも、規範的に生真面目に生きてきた者の方が、老齢期にさしかかると、酷く「短気」になる者をよく見かけるのである。