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男女の愛が出逢ったままの原型を崩さずに永遠に純潔なる輝きを保つためには、その愛そのものを手に入れてしまわずに、自分の手に届かない場所にひっそりと置いておくことが必要となる。
心に傷を負った人間にとっての人生における最大の目的と問題とは、自分が求めるものから深く「愛される」ことであって、自分の方から「愛そう」とする意思を持てないことにある。
人に憚りきれない人間が、嫌々差し出す好意を思い切り遠慮なしに真正面から受け取ってやることで、断りきれない相手の醜い「本性」を剔抉することが可能となる。
肉欲に溺れ合うだけの恋に恍惚と陶酔するためには、許された無辜なる恋ではなく、立場的に禁じられている恋をする方がまだ長続きする。
自然と呼べるものは我々人間にとっての「成功」ではなく「敗北」と共生する運命にある―。人生で手痛い敗北を喫した者ほど自然をこよなく愛するのは、自然が我々人間にとって肯定もなければ否定もない、極めて寡黙な姿を晒すためにある。
不本意に傷つけば傷つくほど自分の世界に逃避して社会性を喪失していく者は、日々を過ごす家庭の中を窺うと、母親ではなく「父親」から何らかの悪い影響を受けているケースが非常に目立つのである。
気の弱い人間にとっての理性とは、その者の忍耐ではなく人生への「失意」から派生する。
老いの遊びに人生の「愉しみ方」が判らないのは、その老いた者がそれまでの人生で手痛い「敗北」を経験したことがなかったためにある。
人情の機微で人の心に訴えるためには、頭で理屈っぽく考えずに、真っ直ぐな心の赴くままに訴えることで、相手の心に響く可能性が高いのである。
人を心底卑下して見損なう冷淡な残酷さを持つためには、人間は意外と同じように自分を卑下するよりか、逆に自分を尊敬する必要が出てくるのである。
物事が自分の思い通りにならないことで感情的に癇癪を起こしてしまう者は、心の中のあるべき理想との対峙によって敗北を喫している、深い「挫折感」が確かにある。
竪子を説き伏せるためには、大の大人を手なづけるよりも、何倍もの人生を俯瞰して達観した広大な視野が必要となる―つまり幼き者の疑いのない幼気さとは、そのように世における真実をいともたやすく見抜いてしまう慧眼を有しているのである。
力と力が互角にぶつかり合って拮抗と竦みが生じる中で、細部まで目を凝らして眺めていると、力と力が激しく鬩ぎ合っているよりか、一つのものとして同化しているように見えてしまうことが少なくない。
自分の躰に流れる血が汚らわしいがために自傷行為を繰り返してしまう者は、その大元の原因を遡ると、彼等に純潔な愛を注がなかった、極めて近しい「肉親」に対する深い憎悪が確実に深層心理に存在しているのを洞察できるのである。
寡となった女性が再び「男」と呼べる存在に恋をする時、女性は男性の雄々しさではなく、心に抱いている「傷」を愛するのである。
真なる意味での残酷さとは何か―。それは我々人間にとっての醜い手練手管の中ではなく、まるで嬰児のように無邪気な「無知」の中にある。
自分の口から堂々と意見を伝えるより、人の口を介して自分の意見を伝えてもらうことの方が、まだ変に誤解が生じて話に尾鰭がついてしまうケースが少なくない。
器用貧乏な者が中々大成しないのは、一つのことに突出するより能力よりも、何事も万遍なくこなせる無難で「汎用的」な能力の方が高いためにある。
何事もなかったように気安く接されることで傷ついた自尊心が痛むとしたら、それはその傷を後生大事に特別なものとして、あらゆる罪から逃れるための悲憤の名の下に愛していることの証左である。
傷ついた心が当の自分を責めることなく、無実な周囲に転嫁してしまう卑劣さを持つ場合、人は自分を許すことに関して必ず何らかの条件や見返りを求めるのである。