文楽素浄瑠璃の会。

配役は、チラシにて・・・。

 

時代物が三曲。演目は全て豊竹座で初演されたものなのだそうだ。

 

文楽素浄瑠璃というのは、簡単にいえば、「文楽」(人形浄瑠璃)-「人形」のこと。

つまりは、人形無しで、三味線に乗った語りだけを聴こう、というもので、

落語と同じように、全ては聴き手の頭の中に繰り広げられるものになってくる。

 

もちろん、今まで観た舞台が浮かんでくる場合もあるし、

あるいは文楽ではなく、歌舞伎の舞台が浮かんでくることもある。

また、何も浮かんでこない・・・なんてこともあるわけで、

そこは演者の技量と、聴き手の体験のコラボが問われる、というもの。

 

文楽初心者の私も、ようやく素浄瑠璃の楽しさに目覚め始めてきた今日この頃だ。

 

今回は、まず靖太夫・錦糸コンビで「金閣寺」。

先日、江東区での会を聴いたばかりで、密かに声援を送る^^

 

この演目は、文楽でも歌舞伎でも度々観ているので、

バーッと脳内に舞台面が展開される!はずだった。。。

ところが、全く出て来ないのだ。

 

もちろん、若手の靖太夫が頑張って必死に見台にしがみつくように(比喩です・・)

声を張り上げているのだけれど・・

どこか、素の靖大夫にばかりこちらの意識が向かってしまい、「金閣寺」は出てくるに至らなかった。

 

20分休憩の後、咲太夫・燕三の「木遣り音頭」が始まる。

初めのワンフレーズから、魂ごと、身体ごと、物語の世界に持っていかれた。

 

これも、文楽ではお馴染みの演目なので、舞台面は焼き付いている。

それがどんどん出てくる。

異類婚の物語で、柳の精だった女は、わが子を置いて切り倒される木と運命を共にしなくてはならない。

遺される家族の悲しみ、柳の精のお柳の切なさに胸が迫る。

 

もっと聴きたい!と願う一段。

この日の三演目の中では一番短かったのが残念なくらいの、

さすがの切場語りの実力だった。

 

そして、最後がこの日の眼目、

先々代綱太夫が得意とした、いわば「家の芸」である「日向嶋」を、

弟子で実子の咲太夫が、彼の弟子の織太夫に伝え、その織太夫が、

この大曲中の大曲に、いよいよ挑む。(三味線、宗助)

 

まだ若い織太夫は、どちらかというと世話物の方がいい時が多い気がしていた。

声にまだ重厚感が伴わず、時代物では軽すぎるな・・と思うことも度々だった。

 

ところがどうだろう。

ところどころ完璧ではないにしても、この骨太のギリシャ悲劇のような「景清」の物語が、

聴く者の心にまっすぐに響いてくる。

 

能「景清」を下敷きに謡がかりから始まり(つまりは、三味線が入らぬアカペラ)

義太夫節になって初めて宗助の三味線が加わる。

黒の肩衣、黒紋付で臨んだご両人。並々ならぬ気迫のこもった幕開きだ。

 

実は、この「日向嶋」は、文楽でも歌舞伎でも未見だった。

それなのに、ありありと舞台面が浮かび上がってくるのだ。

これは、落語を聴き慣れてるからなのか、

あるいは朗読を聴いて想像のドラマが浮かんでくるのと同じなのか・・。

 

いつのまにか、織太夫の姿は消え去って、

脳内を物語の世界が支配するようになっていった。

一時間六分という予定が少し伸びたか・・?

あっという間の、しかし聴きごたえ十分の一段。

やはり、文楽は一段たっぷり語ってこそ、だと改めて思う。

 

語り終えてお辞儀をする前に「大当たり!」という無粋な声が飛んだ。

余韻に浸りたいと思う気持ちに水を差されてしまった。

この日は、度々の傍若無人な(?)掛け声と、近くの男性の鼾に悩まされた。。。

鼾掻いて寝るなら家に帰って~~~!!!

 

とはいえ、素晴らしい感動を胸に、会場を後にした。

またこういった機会を増やしてほしいものだ。