旅の途中で、携帯のメールに友人から、安岡力也氏の訃報が届いた、、、、この何年か闘病中であつたが、遂に、旅立った、、、悲しい、、一般的には、怖そうな、硬派菜イメージだが、親しい友人達には、男気のある優しい男だった、小生は一度も嫌な思いはした事は、無かった、、、むしろ気使いの細やかな優しい奴だった。
彼との出会いは、1960年代後半の、当時小生が、箱バン(一月とかの契約で専属になるバンド)をしていた、札幌のマルゼンと言うジャズ喫茶であった、ジャープファイブ&シャープホークスの一員で定期的にお店に来ていた。当時の彼は、そのハーフと言う風貌もあり、シャープで、今で言えば、ジャニーズ系のイケ面のボーカリストだった。歌って踊れるスタイルは、今で言う、ジャニーズ系の元祖だったと思う。札幌の夜の街を良く遊び歩く仲間になっていた。大酒呑みの彼は、驚いた事に、ウイスキーを丼で飲む酒豪であった。
その後、上京してからも、内田裕也さんを、介して良く飲みに行ったり、当時のGS仲間には頼もしい仲間であった。昔、小生が【MOON】を立ち上げ、恵比寿に事務所を開設した時も近くに彼の自宅があり、ちょくちょく、顔を出してくれて、昔からのGS仲間の溜まり場にもなっていたので、良く酒を飲みに繰り出していた。有る日、彼が珍しく、落ち込んで、現れ、理由を聞くと、涙を流しながら、飼っていたワンちゃんに死なれた、、と、言う二人で夜遅くまで御通夜だと言って飲み明かした。そんな、優しい一面もあったし、息子の力人君が生まれた時の彼の喜ぶ笑顔は、忘れられなかった、、、本当に、優しい男であった、、
安らかにお休み下さい。力也、、、来世で又、会おうね!、、、合掌!

1972年の有る日、内田裕也さんからの緊急招集の電話で夕方、川崎の駅前で集合との事だった。とにかく、天皇、裕也さんには、逆らえないので駆けつけた。繁華街のパブみたいなお店に連れてゆかれる途中でスタッフから説明を受けた。ハンブルグ時代のビートルズを思わせるバンドを発掘したと言う。総勢10名以上で乗り込むと言う。地下に有る其の店の前に行くと、音が聞こえて来た。ん?待てよ、これって、心当たりがあるぞ、、、この前TVの夕方で放送されてた確か、(リブヤング)とか言う番組でそこに出ていたバンドじゃ?確か、、ミッキーカーティスさんが紹介していたバンドじゃ?中に入ってヤッパリ!だった、ストレートなROCKを演奏していた。でも、革ジャンと革のパンツ、そして、カールへフナーのバイォリンBASS
で、一目でそれはトニーシェリダン&ビートルズとしてハンブルグで演奏していた時代のビートルズを思わせる彼等がそこに居た。薄暗い地下の其の店はどう見てもパブと言う雰囲気だった。PAなぞと言う機材は当時は無く、ボーカルアンプと言う正にボーカルだけのAMPで、がなるように歌っていた。
数曲、リハーサルをしていて、終わって、席まで挨拶に彼等がやって来た。御大、内田裕也さんが、スタッフ一人一人を紹介して行く、(彼は、フェルナンデスと言うギターメーカーの表君ね、君たちの楽器の全てを面倒みてくれるからね)と、、言われた、、これは、同時に裕也さんの絶対命令みたいな物である。
(宜しく御願いします。表さん)とリーダーの矢沢永吉氏以下が丁寧に頭を下げた。礼儀正しさに驚いた。
ステージが始まる時間までメンバー一人一人と話をした。最初は、ジョニー大倉氏、(ギターの希望は?)と聞いたら、即座に(リッケンバッカー)と答えてきた。当時、リッケンバッカーはフェルナンデスが、国内の販売代理店だったので、即OKした。次が、内海勝利氏、彼も、リッケンバッカーと言った、次が,ドラムスのユウ岡崎氏、彼の希望で唸ってしまった、、、彼は、(ラデックか、ロジャースが欲しいんです。)と言う、、、困った、、、当時はラデックは超高級なドラムセットなのだ、、、流石にこれは、、、返答は保留になった、最後は、矢沢永吉氏、(表さん僕は、何でも結構ですよ、只ね、アンプが問題なんです。今のエルクのアンプはパワーが小さいので大出力のアンプが欲しいのです。)そう言った。すかさず、当時フェルナンデスで開発中だった、ローヤルアンプとオレンジと言うアンプの話になり、彼の瞳がキラリと光った。そして、この夜は、裕也さんも飛び入りした演奏を堪能して盛り上がって終了、其の後の打ち上げは場所を六本木に移し朝まで盛り上がった、、、それから、数日後、会社に矢沢永吉氏から、感謝の電話がかかって来て驚いた、律儀な男であると、、好感触であった。   Part-2へ続く、、、、、

1972年の秋の事、小生が初めてロンドンに行った。当時、フェルナンデスで開発担当をしていて、イギリスのAMPメーカー【オレンジ】の研修と日本向けの電圧トランス等の変更指導のためにロンドンを訪ねていた。当時のロンドンはROCKの世界的中心地という盛況な時期であった。至る所のライブハウスでは毎夜、色んな個性を持ったバンドが争うように、演奏していた。当然小生も、毎夜、これ等のライブを観に繰り出していた。当時、ロンドンのレコード店や楽器店、街角では、これらのライブを告知する、新聞が配られていたが、其の中で一際派手な写真と大きな広告で告知されていたのが、【Jethro Tull】であった。キングスロードにあった、【RED FOX】と言うライブハウスでのライブであった。友人と二人でこのライブに出かけた。開演前、一時間以上にも拘らず、店の前は長蛇の列が出来ていた。初めて観るバンドなのに、凄いな~凄い人気だと、ワクワクした。並んで待っていると、周りがなにやら、怪しい匂いに、囲まれだした。すると一人の男が、例の草巻きを持って渡して来た。丁重にお断りしたのだが、彼は、小生達に、(もったいないな~、葉っぱ無しでタルを聞くなんて、、、黄金も只の錆びた鉄屑にしかならないよ、)そ言うのでポケットに入っていた、バーボンの小瓶を見せた、、(おおお!そうか、それで、銀色にはなるな~)そう言いやがった、、、あはは、、、それはそうと、この夜の【Jethro Tull】の演奏は、鳥肌が立つほど、凄かった
BLUESをベースにしたJAZZとROCKの素晴らしい演奏だった!ボーカルとフルートの(イアン アンダーソン)のエンターティメントは凄かった、、、周りの観客の様子を見て、あの男が言っていた意味が、理解できた、、、、

1983年の冬の少し肌寒い頃だったと思う。朝のコーヒーを自宅で飲んでいると、けたたましく電話がなった、Mr RY COODERからの電話だった。(あのね、今日、僕のスタジオでJAMが有るんだけど来る?ジェイとか、ジム、デビッド、達とやろうと言う事になったんだよ)もちろん行くと答えた。夜の7時過ぎに彼の自宅のスタジオに夕食抜きで駆け付けた、夕食は、もちろん、RYの奥さんの料理が目当てだ、小児科の女医さんなのだが、料理がめっぽう上手なのだ、同じ料理人として小生とは何時も料理の話で盛り上がるのだ。
リビングに着くと既に、ジムケルトナー氏とデビッドリンドレー氏、が来ていた。奥さんに挨拶を済ませ小生はスタジオで、RY氏のギターの調整に入った。30分ぐらいして、スタジオの扉が開きニコニコと微笑みながら、ジェイグレイドン氏が現れた、其の後ろからもう一人、大柄の男性が入ってきた。顔を見て、あっ!と驚いた、それは、あの、ボズ スキャグス氏だった、、、そうか、、、なるほど ジェイグレイドン氏が彼のプロデューサーだもん、当然ありうるな、、と(やあ、今日は宜しくね)そう言って小生が製作した
テリーを渡さされた、そして、改めて、Mrボズを紹介された、、、(皆から君の話は聞かされてるよ、やっと御本人に会えたね)そう言うとにこやかにハグしてくれた。そして、全員で食事になった。皆で、ギター談義に華が咲いた、食後、10時近くになって、セッションが始まった。遅れてやって来た、ティムボガートがBASSで参加した。物凄い豪華な顔ぶれである。曲目はBLUESが中心で、歌は、やはり、BOZが中心だろうと考えていた小生の考えは、見事に裏切られた、BOZが歌ったのは、たったの二曲、殆どはBLUESギターリストとなっていた。しかも、、これがメチャ上手い、、、ボーンアンダーザ,バットサインのソロと、T=BONE
シャツフルのソロは凄かった、、、、この夜のJamセッションは、明け方まで続いた。休憩時間にBOZ氏と話した、な~るほど、と思ってしまった。彼はJ、ガイルズバンドのギーターリストだったのだ。Jガイルズバンドと言えば、バリバリのBLUES BANDである、これで理由が判明した、凄い筈である。
それから、二週間後、彼は、ノースハリウッドにある小生の工房を訪ねて来てくれた、、、この時から彼をBLUESMANとして、尊敬している。

初めて、彼を観たのが確か6年位前だったと思うが、明石家さんまの、からくりTVと言う番組だった。つまりは、彼が6歳だったと思う、なんちゅう末恐ろしい子供が居るなと、思っていた。
そうして、今年の2月に菊田俊介のLIVEにゲスト出演した竜之介君に会い、そして、菊田氏と堂々と絡むギターバトルを観た。正直、驚いた、この子は天才だ、、、と思い知らされた。と同時に、同じく天才少年だった、CHAR氏の事を思い出した。ひょつとしたら、この子はその、CHARを抜き最年少でギターヒーローになる可能性を充分に感じた。
頼もしい、、、良いな~新しいヒーローの予感、、久しぶりに明るい光が見えた。

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大阪、三国ヶ岡、FUZZにて、竜之介君と

1980年の冬、ロスアンジェルスの恒例の楽器ショー【NAMM SHOW】での事だった、MOONのブースに朝一番で、大柄な英国人が現れた、彼は幾つかのMOONのギターやBASSを手に取り丹念に眺めていた。
そして、小生に手招きして、こう切り出した。(イギリスの代理店は決まってるの?)(いいえ、まだ、決まっていません)そう言い出すと彼は、いきなり、名刺を差し出した。そして、その名刺には、【チャンドラーギターズ、社長、チェス チャンドラー】と書いてあった。話をしている間に彼の顔に見覚えがあると気が付いた。で、思い切って聞いた(あの~、貴方はアニマルズのベーシストだった、あのチェスさんでは?)そう切り出すと、(そうですよ、)やっぱり!この人は。あの偉大なバンド、【ザ、アニマルズ】のベーシストであり、あの偉大な【ジミ、ヘンドリックス】を発掘してロンドンでデビューさせ、マネージャーとして、ジミヘンの生涯を作った、偉大な人だったのだ、、、(お会いできて、光栄です)そう言うと、にこやかに笑い、(あのね、午後に、会社のオーナーを連れてくるから、その時に君と契約しましょう。)そう言うと、足早に立ち去った、、、小生は狐に摘まれたような出来事だった。
その日の午後に、再び、彼は長身の真っ白なスーツに包まれた男性と現れた。その男性の顔を見て、小生は驚いた、、、そこには、あの【THE WHO】のリーダーでギタリストの【ピートタウンゼント】氏が居たのだ、エッ!この人がオーナー?思いもよらない展開にビックリである。そして、ピート氏はブースに並んでいるギターを取り上げ、試奏を始めた。ブースの周りには、いきなりの、スターの演奏に、人垣が出来ていた。試奏が終わるといきなり、握手を求められ、契約成立となった。
この日から、イギリスの代理店は【チャンドラーギターズ】に決まった。そして、早速、商談に入ったが、先ず最初に【THE WHO】のギターとベースのオーダーになった。
そして、その時に数ヶ月後に行われる。ヨーロッパツアーに招待を受けた。そして、その7ヶ月後、小生は完成したピート氏のギター3本と、ジョン氏のベース2本の合計5本を持って、ロンドンのチャンドラーギターズを訪ねた。丁度、ツアーのリハーサルをしていたTHE WHOのスタジオにチェス氏が案内してくれた。そこには、ピートタウンゼント氏、ジョンエントウィスル氏、ロジャーダルトリー氏、ケニージョーンズ氏がリハーサルの最中だった。やがて、リハーサルの休憩時間になり、小生を見つけてピート氏が駆け寄って来てくれた。そして、(遠い所をわざわざ来てくれて有難う!)そう言うといきなりハグしてくれた。早速ギターを見せると、(ワ~~ウオ!カッコイイ!)そう言うとAMPに繋いで音を出し始めた、、次は、ジョン氏のベースである。ビールを煽っていた、ジョン氏もベースを見るなり、(ワーオ!)と声を上げAMPに繋ぎ音を出し始めた。そして、二人で合わせ始めると、そこに、残りのメンバーが参加、其のまま、リハーサルが再開、リハーサルとは言え、目の前でTHE WHOが演奏しているこんな贅沢が有るだろうか、、感激していた。リハーサルが終わり、そのまま、レストランに全員で繰り出した。食事の間、小生はピート氏の質問責めに遭っていた。そして、最後には(きっとね、君との出会いは、天国に居るキースが引き合わせてくれたのかもだよ、キースの姓はMOONだしね。)あっ!そうか、、、確かに、そう思った、、、そして、三日後ロンドンでのツアー初日に、小生の作ったギターとBassはTHE WHOのサウンドを奏でていた。其の翌年、THE WHOは解散した。ラストツアーにも招待され観に行った。お付き合いの間、沢山の思い出を頂いた。THE WHOは偉大なバンドである。
最終日はシークレットライブと言うことで、西宮市苦楽園にある【パーアルフェツカ】でのライブこの日は20名以上のミュージシャンが集まってくれた、西野やすし氏、田中名鼓美さん、清水 亮君、他沢山のミュージシャンの皆様が集合してくれた、飛び入りゲストには、桑名晴子さん、増田俊郎さんまで、、、
本当に素晴らしい、熱いセッションナイトになった。$MOONYのブログ
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6日間に及ぶ関西ツアーは大盛況の内に終了、
菊田俊介と言う御仁はつくずく、多くのミュージシャンに注目されていると実感した6日間であった。
これも、彼の人徳と言うか、憎めない性格と言うか、、、、
そして、このツアーをプロデュースしたマーシーには拍手を送りたい。又、関東から連続してツアーサポートしてきた、まっつんこと、松岡祐樹君にも拍手です。このツアーを確りと支えて頂いた、清水 興さん
堀尾哲司さん和田八美さん本当に有難う御座いました。
関西ツァー4日目は神戸の【チキンジョージ】にて【Jo-Guys Band】とのジョイントライブでした。ゲストでの出演、とにかく、底抜けに楽しい、豪華なメンバーでのライブ、三時間以上がアッ!という間に思えるくらい楽しいライブでした。$MOONYのブログ
そしてこの日は小生の作品が勢揃いした記念すべき日でありました。菊田氏以外に、清水 興さんのBASS,
清水 亮君のBass,林 達郎さんの、30年前に小生が作ったギターに再会して、感激でした。


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5日目は菊田俊介のライブが同じ【チキンジョージ】で開催された。この日のゲストは、美人ギターリストの【静沢真紀】さん、女性シンガーのサカチー事、【酒井ちふみ】さんの華二輪、、、お二人とも美人で歌は上手いしギターも凄い。
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いや~この日もほぼ満員のお客様で楽しいライブでした、BLUES万歳!


Part-3に続く
2月16日の京都【RAG】からスタートした今回の関西ツアー、最高に熱いツアーになりました。
16日のRAGにはゲストに関西シカゴブルースと言えばこの人(田中晴之)氏とボーカルに(Yammy)を向かえ、清水 興氏、堀尾哲次氏、和田八美さん、の強力なサポートでスタートした。$MOONYのブログ
菊田、田中のシカゴブルース対決はいやが上にも白熱,観客を引き込んで行く、熱いギターバトルになった。そして、最後に今夜の華一点、Yammyの登場で一気に盛り上がった。楽しい夜になった。
二日目は、東大阪、三国ヶ丘(FUZZ)この日は御大【桑名正博】氏とのブッキングライブである。
マサやんと小生は1973年からの長い付き合いなので、大いに嬉しい。$MOONYのブログ
そして、この夜はもう一人のゲストで12歳の天才ギター少年【山岸竜之介】君が参加してくれた。いや~確実にギターが上手くなってる~!驚いた!菊田氏とのギターバトルは見応え充分だった!
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帰りがけに、マサやんが、(菊田君、ギターええな~!)と小生に言ってくれた、嬉しかった。
三日目は大阪難波の(SORa)でのライブだ、この日は関西のスライドギターの名手【住友俊洋】氏のバンドがOAで出演、素晴らしい迫力とスライドギターの世界を魅せてくれた。そして、この日のサプライズはシカゴから帰国中の女性サックスプレーヤー【AYAKO-MINAMI】さんの嬉しい飛び入りであった。彼女のPLAYは本場で磨かれた大変素晴らしい音であった、、この日も満員のお客さんと楽しい一夜であった。
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Part-2へ、続く

先ずは、この場を借りて読者の皆様へお詫びします。暫く書き込む暇がなく、再び書き込みしようと思ったらIDを紛失、書き込まれないまま、長い間時間が経過いたし、申し訳ない、、、やっと、書き込みできまする。ゴメンなさい!
さて、今回は小生が渡米を始めた1970年代にアメリカでLIVEを見て物凄く衝撃を受けた人に付いて書いてみたい。
既に、故人にはなっているのだが、確か、5回目の渡米をした1976年の事である。この時はNAMM(全米楽器ショー)の為に渡米していて、帰りにNY経由でロンドンに行こうと思っていた。そして、何気なく買った音楽専門誌で【MR PAUL BATTERFIELD】の記事を見つけた。その中に彼が出演するBLUES FESが、メンフィスで行われ、他には、B,B KINGや、BUDDY GUY、など豪華な出演陣の名前が並んでいた。よし、これは、観に行くしかない!そう決めて、エアーチケットの変更とホテルの予約をした。
三日後に飛行機に乗りロスアンジェルスから一路メンフィスへと夢が膨らんだ、、ところがである、出発当日に、珍しく落雷を伴った大雨になり飛行機は欠航になった、、、やむなく、ホテルへ逆戻りすることに。
BLUES FESは翌日から二日間の日程で開催される予定なのだが、トリであるPAUL氏は夜の出演と言うことで
安心していた。翌日再び空港に、ところが、前日のフライトキャンセルのせいで、小生が搭乗出来る機が夕方にしかないと言う、仕方が無いそれで行くかと乗り込んだ、、メンフィスに到着は夜の7時過ぎになった、慌てて、ホテルに直行、荷物を預け、大急ぎで会場へ、ところが、TAXIが渋滞の為会場に着いたのが9時近くになっていて、既に最後のセッションが始まっていた。すでに、Paul氏のステージが終了して、B.B.KING、BUDDY GUY、MASHAL TAKERなどと混ざって、其処にはPAUL氏の姿が有った、到着後、30分でFESの一日目が終了、、、肩を落として、、帰りにビールストリートに寄った、沢山のBLUES CLUBの看板に奇跡の様な
看板が目に入った、、明日、PM9.00 Paul Baterfield出演と有ったのだ、、ウォ~!これは絶対に神の思し召しだ~!そう思った、足取りも軽く夕飯を食べに、この日は張り込んでTボーンステーキにした。夕食後、先ほど見つけた看板の店にライブを観に店内へ、、バーボンソーダーを注文、気分良く二杯目に入ったその瞬間、カウンターに座ったその客の顔を見て思わず叫んだ、、、そこには、Paul氏御本人が居たのだ
何たる幸運、、気が付くと彼の処に行っていた。(あの~失礼ですが、貴方の大ファンなんです。握手して下さい。)そう言った、すると(君は何処から来たの?)(東京から、貴方のライブが見たくて来ました)そう告げると、驚いた顔と、優しい笑顔で(へ~日本からなんだ~、嬉しいね、俺のファンが日本にも居てくれたなんて)そう言うと隣に座れと言うので、もちろんと言って席に置いたカメラが気になり戻った、、、既に、、カメラは無くなっていた、、、愕然とした、、その様子を見ていたPaul氏が、(どうしたの?)(あの~どうも、カメラが盗難にあったようです)そう言うと直ぐに、カウンターの中に居た支配人に警察を呼ぶように指示してくれ、そのまま警察が来るまで傍で心配な表情で小生を慰めていただいた。その後、間もなく警察官が登場、、折角の時が、悪夢に、、、そのまま、パトカーで警察へ、、パトカーに乗り込む際に、Paul氏が(明日の夜のSHOWは僕が招待するから観に来てね)とそう告げられた、、なんと言う優しい人なんだ、、、涙が出そうになった。
翌日の事、警察から連絡が入り、犯人が捕まった、そしてカメラも無事に回収された、一安心である。其の夜、颯爽とライブに繰り出した。お店に入るなり支配人が出迎えてくれ、一番前のテーブルに案内された。(今夜はMr Paul Battefieldの招待です。飲み物でも食事でも全てフリーです。最後までSHOWを楽しんでください)そう告げられた、、、なんと言う光栄な事だろう、、、暫くするとShowが始まった。バックのバンドはマイクブルームフィールドのギターではなかったが素晴らしいギターリストだった、そして何より驚いたのはドラムスはバディマイルスだったのだ、、、昨夜は後ろだったので、確認不能だった、だが今夜は一番前で見れた、、嬉しさで最高の興奮状態になった。思う存分楽しませて頂いた。そして、SHOWが終わって御挨拶に楽屋に伺った。手土産に持ってきた扇子を渡し感謝の意をお伝えした。それから、何回も彼のライブにお伺いした。小生がギタービルダーと知って、エルビンビショップ氏や沢山のギターリストを紹介して頂いた。
忘れもしない1987年の6月、それまで彼は長いこと持病の糖尿病と闘い、そして復活喜んで居た矢先の事
彼が亡くなった。。。死因は麻薬の中毒死、辛かった、、、あんなに、優しい人が、、、天国の彼に今でも小生は感謝している。。。有難う御座いました。Mr Paul Batterfield!