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”文脈”について細かくみてみる。 まず、石川氏がKuTooを性差別問題として捉えていて、そこでは、女性には職場の服装について決定権・関与する権限がまったくない被害者であると主張している。更に、男性が女性の職場の服装に関与すること自体が差別、という主張がされている印象がある。

 

それに対して、原告は、女性の職場の服装については女性に決定権があり、男性は関与が(全く)ない。だから、KuTooを性差別問題として捉えるのは誤り、という立場。

 

で、石川氏の女性は100%被害者(男性の関与がちょっとでもあったらそれは差別!)、原告は男性の関与はまったくない(ちょっとでも関与があったら差別認定される!)、っていう白か黒の二者択一しかないっていうレベルでの攻防が少なくとも原告の側には認識の根底にあって、 で、ゴリラは、男性が女性の職場の服装への関与がないっていうのはおかしいでしょ、って立場で議論をしている。男性→女性の職場の服装への関与について、ゴリラが関与がある事自体は必ずしも差別的でもない、っていう立場かどうかは不明だが、。

 

で、原告の件のツイートは、複数の読み方ができるような気がする。

 

1つは、

ゴリラ「職場の女性の服装のTPOに、男性は無関係で女性が決めているって話は同意できませんね。職場に水着で入ってきても、男性は女性の服装に文句を言わないんですか?」

<中略>

ゴリラ「服装のTPOを決めるのに男性は関与しないんですか?TPOから逸脱していれば、男性から苦言を呈されるのは当たり前なんですか?」

原告「逆に言いますが、男性が海パンで出勤しても#kutooの賛同者はそれを容認するということでよろしいですか?」

 

という流れで、原告がゴリラの主張である男性が女性の職場の服装への関与があると認めた上で、それがかならずしも悪いことではない、という趣旨。つまり、男性が海パンのような非常識な服装で出勤をしてきたら女性はそれを常識からいって容認はしないだろうし、その場合女性→男性の服装への関与は当然のこと、だから、逆に、男性が女性の職場の服装へ関与したとしても、それが即、男性→女性への抑圧を意味しない、、っていう主張である、との読み方。

この読み方からすれば、海パンという極端な例と比することでKuTooを非難中傷している、という石川氏の批判は、文脈と全くあってない。

 

2つ目の読み方

石川氏が捉えるような服装に関して女性は決定権のある男性の被害者、という前提で、だから、男性が女性の職場の服装に関与することは0レベルであるべき、っていう立場なら、”逆に”、女性も男性の職場の服装には関与することは全く許されないから、男性の海パンも無条件で認めるよね?ってなるが、それは極端な結論となる、そうなるのは、女性は男性が決めたことの被害者で、男性は女性の職場の服装への関与は0にすべき、というような前提がおかしいということだ。主張のポイントは、海パンにあるのではなく、前提がおかしい、ということにある。

この読み方からでは、一応例えとして海パンがでてくるものの、原告の趣旨が前提を批判するものであるから、海パンに着目して、極端な例と比することでKuTooを非難中傷している、という石川氏の批判は、文脈とはあっていない。

 

3つ目

石川氏と判決の読み方、単に海パンという単語に脊髄反射で食いついて、逆に ということから、KuTooは男性の海パンを認めるよねって言ってるだろ、っていう解釈パターン。、結果的に2つ目の読み方と同じのようだが、結論に至る過程についてKuTooの定義付けに由来すると自覚しているかどうかの違いで、正当な批判(2つ目)、と根拠なき非難中傷(3つ目)と別れてくることから別物と分類した。また、2つ目は、海パンはあくまで前提を批判するための例えであるが、3つ目は、海パンの表現自体を重視する。

 

個人的には全体の文脈から1つめ的なのかな、とは思うが、石川の引用リツイートに対する原告のツイからみると2ともとれるような気もする。ただ、どちらにしろ、そもそも議論で最初に海パンを持ち出したのが、判決が「KuToo」擁護派と認定しているゴリラであるのに、原告がそれに合わせて反論すると「海パン」を持ち出したことが海パンという極端な服装の認定する運動である主張する非難中傷、って認定されて へんてこりん とか言われるのは、少なくとも倫理的にはどうよ? って思う。また、文脈として、議論のテーマは、男性による女性の職場の服装への関与、とそれと対となる、女性の男性の職場の服装への関与である。1つ目の読み方からは、引用の際に文脈について完全性を求めるものではない、という前提であったとしても、違法になる可能性はあると思う。

 

ただ、内容の点から、ここまで読み込むような厳密さ、正確さを引用に求めるのはどうかなーっとも思う。それぞれの読み方の違いって、かなり読み込まないと理解できないと思うので、引用が厳密な精密性を求めるものではないの立場からは(東京高判平 14・11・27「運鈍根の男 古河市兵衛の生涯」事件(平 14(ネ)2205)判時 1814 号 140 頁 )、まぁ、違法としない原審の棄却という結論は、まぁ、ギリギリありかな、、とも思う。で、多少(かな??)の齟齬は、それは公の議論で自由な言論により解消っていう原審でも言及しているロジックになるけど、、

 

でも、判決文をみると、基本的な姿勢として、ツイートの真意を含めて判断していることを考えると、そもそものゴリラと原告のやり取りの文脈を考慮していないように見えるのは、やっぱり、どうなのよ?って思う。