仏陀の言葉だったと思うんですけど

「好き」と「愛する」との明確な違いについて説明している

例えば、花が好きといえば、摘んで持って帰って部屋に飾ります

でも、花を愛するといえば、水をやったり草を抜いたりして育てようとします

 

このような明確な違いがあるのに

我々はよく好きと愛するを混同してしまうのです

どちらが良いとか悪いとかの話をしているんでも

気持ちの重さの話をしているんでもない

明確に違うものを混同してしまう事の危うさの話をしよう

 

もちろん両者を混同してしまうのは

それがとても近い感情であるからなんですけど

それでも違いをちゃんと意識していないとある種の悲劇が起こる

花のたとえ話でいうと

花を愛する人にとって花を摘む行為は残酷だしそこに愛は感じられないかもしれない

花を好きな人は、遠くで眺める行為はまどろっこしく、相手の好きを疑ってしまう

ね!(笑)

これが対象物が花じゃなく人間なら、より悲劇は加速する

 

 

私は人間は残酷で自分勝手な生き物だって思っているから

花を摘んでしまう(好き)と花を育てる(愛)と、どちらが尊いかなんて考えない

花を摘むことも花を育てることも善悪で判断しても意味がない

どちらも人間の本性の部分にある感情で

その中に美しい好きと醜い好きがあり、

美しい愛と醜い愛があるだけだと思っている

 

よぉくこの辺のところを明確にしておかないと

好きだけど愛してないとか、愛してるけど好きじゃないとか

そんな状況もあり得る話ではなくもない

ときに人間の持つ好きは崇高な目的に向かうこともあり

ときに人間の持つ愛は相手を地獄に落とすこともあるのだ

所詮、人間なんてそんな矛盾した状況の中で暮らしてる

人は好きという感情や愛という言葉について多くを語りたがるが

好きや愛に純粋さを求めてもあまり意味がないように思う

何故なら人間って、決して純粋な生き物ではないからだ

好きだから愛してるんだとか

愛してるから好きなんだとか

それは違う感情なんだから,かつてに信じ込まないほうが良い

 

えへん‼

仏陀よりも悟りを開いた私から、好きと愛の明確な違いをお教えしよう

 

好きは一瞬で嫌いに変わり、愛は一瞬で憎悪に変わる

 

そんな危うさの中に我々の人間ドラマはあるのだ

単純にそれらが尊いものなどと思い込むのは止めたほうが良い

好きが良いことで嫌いが悪いこと、愛が良いことで憎悪が悪いことなど

そんな簡単な図式で語れるほど人間社会は簡単ではない

たくさんの不確定要素の中から本当の自分を見つけてゆく以外に道はないのだ

相反する感情を両方含んでいるからこそ人間なのだ

 

もう一度言うけど、人間は決して純粋な生き物ではない

自分が、さもまともな人間であるように

ラブ&ピースなどと能天気に発言する奴が私は嫌いなのである

自分に嘘をついても仕方ない

醜い自分の心と向き合って泥の中に手を突っ込む覚悟で生きて来た

大好きで大嫌いで、愛しているけど憎悪している

そんな存在が自分自身なのである