自分について、或いは自分を取り巻く現実について、考える時、

頼りにするものって、その人の記憶になる

あの時自分はどう考え、周りはどう反応したか、とかは、

全部自分自身の記憶の中に探りに行く

だが、あなたが冷静沈着頭脳明晰な方だとしても

この時の記憶って、一人の例外もなく正確なものではない

当たり前の話で物事を正確に記憶していたら

人の脳はあっという間にパンクしてしまう

常に記憶とは自分に都合よく書き換えられるものなのだ

悲しい記憶も楽しい記憶もデフォルメされるから人は先に進んでいける

もしあなたが正確な記憶を持ち続けるなら

一生その記憶に縛り付けられて動けなくなる

自分で自分を守るために、人は記憶の改ざんをする必要がある

それくらい人にとって正確な記憶っていうのは残酷なのだ

 

まず、このことを念頭に置いて物事は判断すべきなのだが

だとすれば、公正な判断なんて出来るわけがない

そんな自分勝手に書き換えた記憶をもとに良いの悪いのと判断されても困る

そもそも、デフォルメされた記憶で結びつく人間関係って脆い

 

非常に気持ち悪い話をするが、

人間が生きてゆく時に頼るものって、この曖昧な記憶だけなのである

正確でなかったり都合よくデフォルメされたものしか判断材料はない

世間ではこのような偏見に満ちた一方的なジャッジで人を裁くのだ

つまり生きてゆくための土台ってすごく危ういのである

人同士で喧嘩や争いが起こるのも、この記憶の差から始まる

夫婦でいうと一番身近で共通の暮らしをしている同志のはずなのに

お互いの記憶の認識が違うために衝突が起こる

もっと極端に言うと(自分が正しくて相手が悪い)としかジャッジしない

 

もう一度言うが、人間に正確な記憶なんて存在しない

 

だとしたら、どうすればいいかを考えるのだ

記憶が曖昧なものである前提で物事を考えるのだ

つまり人間には記憶する能力と考える能力の二大能力がある

これらはお互いの足りない部分を捕捉し合うことが出来る

だから、まず考えてみることから始めよう

信じているものを捨てて、自分の認識や記憶を疑ってみることだ

人生には記憶の補正作業をするべき時が必ず来る

この時に自分が間違っている前提で物事を考えられれば

人生はもっと実りあるものになるような気がする

正確な記憶も持たない者が

自分が正しいと思う込むこと自体が驕りなのである

 

我々は愚かで間違う生き物だという前提で人間社会を見ていかなければ

本当の真実にはたどり着くことは永遠にない