日本語教室に通うある生徒の質問に答えて曰く
「ニック先生の病気が早く治ることを祈ってやみません」
という短文を作ったんですけど、
先生が「祈って」を「願って」に添削してくれました。
2つの単語は雰囲気的にどう違うんですか
具体的な場合や例文があれば助かります
祈り・神仏に自分の望みが叶う様に請い求める
願い・何かの実現を期待することや、夢見たことが実現することを望む
こういう説明で間違いはないのですが、
このままでは両者の違いって神が介在しているかどうかになってしまう
果たして(祈り)に神の存在って本当に必要なんだろうか?
だとしたら無神論者には祈りの意識ってないのだろうか?
そういう疑問が私にはある
だから、こう考える
祈りとは自分を無にして他に請い求める望みであり、
願いとは自分自身のなかにある自分への欲求である
だから、神様に祈る場合もあれば、神様に願う場合もあってよいのだ
さて例文に戻るが、これに添削の必要などない
それが祈りなのか願いなのかを第三者が判断すべきではない
問題にするべきは例文を作った人の意識がどこにあるかだと思う
これに対して本人が質問して来ているということは、
自分の中でこの違いが明確に出来てないないという事だ
明確でない意識に対して、それを『祈り』だと主張するのは少し違う
たぶん、こういう人って多いんだろう
『平和への祈り』なのか『平和への願い』なのか
その違いを本人が意識出来ていない
ウクライナの戦場に千羽鶴を送った人に感じた違和感がそれだ
この辺を踏み間違えて、『祈り』を自己主張しているっておかしい
もちろん自己主張したいのであれば、それは『願い』である
相手の立場に思いを寄せないで、一方的に祈るなんておかしい話だ
それが平和への願いならば、救援物資や支援の意見を述べればよいのに
千羽鶴で祈りに変えていることにあざとさを感じる
そこに偽善の匂いがして私は嫌だったのだ
願いが低俗なもので、祈りが高尚などというつもりはさらさらないが
自分の主張を『祈り』だなどと偉ぶるのだけは許せない
今一度自分の心に問うてみることです
それが祈りなのか、願いなのか
自分を無にしてまで他者の幸せを願うことは非常に難しい
本当に心に祈りを持つことのできる人はそう多くはない
願いも祈りも自分の心の在り様次第だが
祈りとは無私であるかどうかがその始まりであり、その結果である
何故なら、祈りとは(他への思い)であり、願いとは(己れの思い)だからである
