今日は歴史のお話です。年末年始、昔はどの局でも時代劇があって、どのシリーズをみるか、結構楽しみでした。私は「必殺シリーズ」が好きでしたが、年末特別の「赤穂浪士」や「大奥」ものもがあると迷いましたねぇ。家族みんなで!うふふ。 
 
 では、今回の歴史のお話です。 
 
 1578年12月8日は12月4日から始まった第2次木津川口(今の浪速区木津川の河口)の戦いが、毛利・吉川・村上水軍と織田信長が推す九鬼水軍(伊勢市あたりの海賊)の間で繰り広げられ、九鬼水軍が勝利しました。
ご存知のように、天下統一目前までいきながら、本能寺の変で明智光秀に殺された織田信長でした
が、それまでに信長が大いに苦しめられていたものがありました。それは、ひとつには中国地方の毛利、吉川、小早川のいわゆる毛利一門の反抗でした。また全国で起きる一向宗(浄土真宗)の一揆もありました。その総本山が大坂(当時大阪市中心部は石山と言われましたが)の顕如を門跡とする石山本願寺の反抗でした。そして毛利家と石山本願寺はタッグを組んで信長に11年にわたって反抗します。
それを石山合戦と言います。

「太閤さんの大坂城」として見学している大坂城は、徳川家が今後豊臣家が再興しないように、また西国の監視を強化するために作った「徳川大坂城」であり、秀吉がつくった大坂城は、あのような白亜のお城ではなく、もっと黒っぽい色をした別のお城(豊臣大坂城)であったことが大阪府の大規模実態調査で明らかになっています。
 昔の画を見ると黒っぽい大坂城の絵もありますよね。安土城も黒っぽい、でも白と黒のコントラストがくっきろした城であったようなので、これは主、織田信長の城を意識したのかなぁ・・・と思いました。 
その地下には、豊臣大坂城のもととなった石山本願寺があったことも立証されています。
大坂城のもとになるぐらいでしたので広大なお寺とは・・・・・僧侶顕如はここを本拠地として徹底的に信長に反抗しました。そして石山本願寺に武器や食料を援助してきたのが中国地方の大大名であった毛利輝元でした。

毛利輝元は、食料や軍事物資を中国地方から毛利水軍・小早川水軍・村上水軍(海賊の一種)を使い、石山本願寺にむけ木津川河口(現在の浪速区)から送り届けていたのでした。織田信長はその補給路を断とうと1576年第一次木津川口の戦いが起こり、毛利水軍・小早川水軍・村上水軍と衝突しますが、その時は毛利水軍等が「焙烙火」という、爆弾のような、他の船に投げつければ、それが甲板で破裂し火事をおこす玉を使用し、そのため織田信長水軍は敗戦しました。
 
 織田信長はやはり陸地での軍。奇襲がうまいイメージが勝手にあります。流石の信長も水には苦戦し他のでしょうね。
その2年後、摂津の国(今の北大坂)の36万石の中大名であった荒木村重が、信長に反旗を翻します。
この荒木村重はもともと摂津の国の池田氏(今の大阪府池田市あたり)の家臣でした。当時摂津の国は、伊丹氏(いまの伊丹市あたり)、池田氏(いまの池田市あたり)、吹田氏(今の吹田市あたり)、能勢氏(いまの能勢市あたり)、茨木氏(いまの茨木市あたり)といった豪族が納めていましたが、1574年荒木村重は伊丹親興の伊丹城を攻め落とし、有岡城と名を改め、その後信長と組んで次々と摂津の国の豪族をおさえ勢力を拡大したのでした。
この荒木村重が顕如と毛利家と手を組み、信長に反抗するようになりました。結局有岡城が信長に攻め
られ、落城し荒木村重は毛利をたよって中国地方に逃亡しました。丁度その年の12月4日から8日まで4日間の第二次木津川口の戦いが毛利・村上水軍が再度織田軍(九鬼水軍という伊勢の海賊を使って)と戦いが繰り広げられ、このときは前回の反省から甲板を鉄板にした織田軍(九鬼水軍)が圧勝し、その後毛利家からの支援物資を得ることができなくなった顕如は、10年以上の戦いに力尽き、降伏し、紀州にしりぞいたのでした。
 しかし、長男の教如はこれでも、降伏を拒みたて篭りを続け、各地に檄文を飛ばしたりしたが、まもなく石山本願寺は織田信長に火をつけられ、石山本願寺は炎上したのでした。その後、信長は秀吉を毛利討伐のため中国地方に差し向けましたが、本能寺の変(このとき秀吉は中国大返しで猛スピードで京都に帰ってきましたが)で明智光秀に殺されました。そしてその後天下をとった秀吉は、この強大な権力をもつ本願寺の力をなんとか低下させたいと願い、大坂から京都に移転させ、本願寺(今でいう西本願寺)を建立させました。

また江戸時代になると、家康は更に本願寺の力をそぐために、一度隠居していた教如に本願寺の東側に寺領を寄進し、本堂を建立させ東本願寺(大谷派・現在は分裂)を作らせたのでした。これが今では、おひがしさんと呼ばれ、同じ浄土真宗でありながら京都のそれぞれの至近距離に西本願寺と東本願寺がある理由です。
 どちらも今では京都観光ではあまりにも有名な場所です。私のように京都出身ではない者は おひがさん、おにしさん と言われている意味があまりよくわかりませんでしたが、京都出身の友人は、もちろんこの話は良くご存知で、むかしこの話をしてくれました。
 大晦日、お正月のお参りの祭に、大勢の列の中で並んでいる時にちょっと思い出し、ご家族にもお話してみてください。