一昨日の「おせっかい教育論」の講演会の刺激が強かったのか(?)、今日は時間さえあれば、内田樹先生の「レヴィナスと愛の現象学」を読み直しています。と、いっても今回の講演会は「レヴィナス」じゃないので、目についた本をまた読んでいるだけなのですが、
 同じ本でも学生時代に読んだ印象と年を重ねて読んだ印象が違ったり、理解が深まったり、と、読後の後味が全く異なることってありますよね。
 私が「伊勢物語」を高校時代、30代と再度読み始め(これは、大学の講義で受講したからです。)、また昨年から読み始めたときに、高校時代では浮かばなかった、人との絆や、恋愛の侘び寂び、を感じたり、季節のうつろい人の心のうつろいが 少しわかるようになりました。
 一昨日の講演会で、平松邦夫氏が夏目漱石の「坊ちゃん」を改めてこの年齢で読み直しをしたときに学校の教員のタイプって、「坊ちゃん」登場する6パターンに当てはまっていて、その個性のある登場人物誰一人欠けても学校という組織はうまくいかないんだなぁ。と述べていらっしゃったのが印象的でした。
 夏目漱石の「坊ちゃん」は何度かドラマにもなった思うのですが、子ども心に「この主役、ひどいな」と感じたものでした。べーっだ!べーっだ!べーっだ!
 かなり問題のある先生だと思うのです。もちろん誇張されている部分もありますが、でも、教員がみんな、「赤シャツ」だったり「うらなり」みたいな先生ばかりなら、生徒は息切れししてしまいます。いろいろな考えを持つ、個性のある教員から学ぶことは 結構記憶に残ることだとおもいます。
 学校教育は、塾ではないので勉強だけ、勉強のノウハウだけ教育し覚えるところではありません。皆、頭でわかっているのですが、教育現場がうまく立ち行かなくなっていることに危機感を覚える方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
 
 教育は決して費用対効果ではかれるものではないのですが、費用対効果ではからないと無駄だと思えてしまう状況があります。
私自身女子大時代は「英文科」に通い将来は「英語」を使える仕事に就きたいと若い頃は強く思っていました。結局、英語をいかせる仕事に就くことはなく(もちろん、実力もなかったのですが)この年齢まで「ふつうのおばさんサラリーマン」をしています。
 ただ、明らかに言えることは、英文科で習ったことは無駄ではなく、教養としては身に付いてる・・・と自己満足しています。教育は、もちろん知識を身につけること、数学ができるようになること、英語が読めたり、漢字がかけるようになったり、論文が読めたり・・・と学ぶ喜びを感じることだと思います。(また、青臭いこと、って言われてしまいそうですね。)
 それと同時に学んだことを教養として身につけることも必要なことだと思います。
 檀ふみさんが、「教養は邪魔にならないから」といって、井上真央さんに大学進学を強く勧めた話を聞き、
学齢期のときに「大学に行って、今よりも多くの友人を見つけなさい。そして教養を深めなさい。教養は邪魔にはならないから。」高校の先生に言っていただいたことを思い出しました。

 「おせっかい教育論」の第三弾の講演会を楽しみにしています。