小学生のころ、トルストイ原作の『人にはどれだけの土地がいるか』という物語が好きだった。
(『世界の名作童話 三年生』(偕成社)という本の中の一編で、
子供向けにアレンジされた再話だ)
パホームは、じぶんが情けないのは、土地を少ししかもっていないことだと思い込み、
「ひろい土地さえ手に入れられれば、悪魔だってこわくない」と、つぶやく。
それを暖炉のかげで聞いていた悪魔がいう。
「それなら、おまえにたくさんの土地をくれてやって、それで、とりこにしてやるぞ」
そして、パホームは、ボルガ川のむこうの土地をやすく手に入れる。そしてさらに遠くバシキール人の住む土地へ行く。
物語の中には「バシキール人は、どんなひろい土地でも、ぱっぱとうってくれるのですよ」というセリフがある。バシキール人は、土地に執着せず、畑は作らず、牛や馬をはなしがいにして生活していたからだ。(現在のロシア連邦、バシコルトスタン共和国に住んでいる民族)
それにくらべ、土地へのあまりの執着ゆえに、
「一日であるいた場所全部が自分のものになる」と聞いたパホームは…、力の限り遠くまであるき、帰ってきたとたんに息絶える。つまり、
人に必要なのは、さいごに、自分のからだをうずめるだけの土地だけ。という衝撃的なオチ。
このオチに魅了された。
そして大人になり、図書館でトルストイの原作を読んだ。
出だしは、パホームのおくさんと、そのお姉さんの口争い。都会にすんでいる姉さんは、農夫の嫁である妹を馬鹿にし、嫁は夫であるパホームにもっと広い土地を手に入れるようにけしかけるというものだった。
姉妹喧嘩から始まる物語に、別の意味で衝撃。
そして、その後、両方のいいところを文章にしてくれている上に、小林豊さんの素晴らしい挿絵がついている絵本にであった。
パホームには、より人間味があり、「もうだいぶ歩いた、そろそろ左に曲がろう」
そう思っているのに、作物が育ちそうなよい草地をみつけ、ついつい、さらにさらに…と、
足を延ばしてしまう。
夕日が落ちていく景色のなかで、パホームが
バシキール人たちの待つ丘の上を目指してはしる姿が空しく悲しい。
アフガニスタンに取材して描かれた小林豊さんの
『せかいいちうつくしいぼくの村』『ぼくの村にサーカスがきた』と、ともに、娘の世代にのこしたい絵本だ。
春休みが終わり、サクラの季節もおわり、野の花が美しい季節になった。
散歩の途中、道路の割れ目に2種類のスミレが咲いていた。
これだけの土地だからこそ、咲いている花に癒される。