言葉は、本当にその言葉を欲している人に、「その時」に聞こえるようになっているのかもしれない。
時の中で、たとえ止まったように見えていたとしても、タネが、時が満ちた時に発芽するように・・
言葉というものも、時が満ち、その人の内側に豊潤な土壌ができた時に、動き始める神秘なものに思う。
若い時は全く読めなかった物語が、時を経て「あぁ、こういうことか。」と世界が広がった時、あらゆる目の前の出来事が変わってくるように見える。。
本の内容は変わっていなくても、読み手の内側が変化し、はじめて「言葉」と共鳴する。
その本や文学を「解釈」したり「知識」として理解するのでなく、自分の日常の生活の中に落とし込めた時、時空を超えた作家と、一体感を得られる幸せがある。
同じ本を、何度開いても、また新しい喜びに満ちることができるのは、読書の楽しみでもある。
50代過ぎた女性の読む「デミアン」。ヘッセの描いた言葉と、わたしの歩んだ日々が、重なる。
わたしは、本を読みながら、気になった文に線を引いた。特に心打たれた場面には、波線を引いた。
自分にとって「二つの世界」があるとしたら、それはどんなものか。
自分にとって「フランツ・クローマーとの一件」は、どんなできごとになるか。
デミアンはなぜ「フランツ・クローマー」の脅しを、止めることができたのか。
序盤だけでも、相当な体感が、物語と重なった。
また、わたしは過去記事で「自由:すべてを疑え」と書いた文がある。
それは、「牧師や先生のいうことは、たいていのことは正しい。ただし、違った見方をすることができる。また批判をすることもできる。」という内容と繋がっている。
わたしは、たったひとりぼっちでなかった。
「みんなが”正しい”という事、でも、それって本当?」と疑問を持っても、大丈夫だよ。そんな風な励ましにも聞こえた。
そうそう。シンクレールが「理想の女性像」、好きになった女の子「ベアトリーチェ」を、絵で描き始める部分に、ゾクゾクした。
わたしが、ちょうど「写真を撮っている」は、理想の「ベアトリーチェ」を描いている行為に、めちゃくちゃ似ている。
世界がこんな風に見えたらいいな、わたしの美しいと思っている風景って、こんな感じなの。
わたしは、多分、花を撮っているのでもないし、海や森の風景を撮っているのでもない。
ただ、届かないけれど「誰にも入り込めない、わたしだけの完全な美しい世界」の映像を、ただ撮ってみたいだけなんだ。
そして、シンクレールが描き上げた絵は「ベアトリーチェ」じゃなくて、一番似ていたのは「デミアン」なんだ。
さぁ、デミアンって、誰だろう・・。
デミアンは、シンクレールに告げる。充分に欲するということは、すべて上手くいくんだって。
充分に欲する、心の底から激烈な熱情を持って欲するとき、奇跡が生まれる。
たとえば、わたしが「セカンドルーム」を借りられたように。
この記事は、書評でも、感想でもない。
わたしが伝えたいのは、その本の中に、自分が生きられるという事。自分を投影できるという事。
その中で、今まで煮詰まっていた問題や、あぁ、次はこれで行こうとか。希望が生まれてくる。
「もう、自分の考えは、これが正しい。これ以外ない。」と決めつけている、ミドル世代こそ、もう一度、読んで、生まれ変われる一冊なのかもしれない。
人は、なんどでも、卵から生まれることができると思うのだ。
ゴールデンウィーク、わたしは一人で、海と草の真ん中で、本を読んで、写真を撮りました。
あぁ、この上ない幸せったら!
あと、休みは1日なんだ。明日は、何しよう。
