ワーグナー ラインの黄金 | 翡翠のブログ

翡翠のブログ

日々の徒然をつづっています。コメントは承認後公開させていただきます。

ワーグナーの「ニーベルングの指環」シリーズを観て感想会に参加しレクチャーを受けるというイベントに参加することにしました。それに合わせて、動画「ラインの黄金」を視聴しました。

 

ワーグナー: 楽劇 ラインの黄金

メトロポリタン歌劇場管弦楽団
指揮:ジェイムズ・レヴァイン
演出:オットー・シェンク
制作:1990年3月、4月 メトロポリタン歌劇場ライヴ収録
162分

ヴォータン:ジェイムズ・モリス(バス・バリトン)
ローゲ:ジークフリート・イェルザレム(テノール)
アルベリヒ:エッケハルト・ヴラシハ(バリトン)
ミーメ:ハインツ・ツェドニク(テノール)
フリッカ:クリスタ・ルートヴィヒ(メッゾ・ソプラノ)
フライア:マリ・アン・ヘッガンダー(ソプラノ)
ファゾルト:ヤン=ヘンドリック・ロータリング(バス)
ファフナー:マッティ・サルミネン(バス)

 

とてもオーソドックスな演出で、背景の大道具も演者の衣装や小道具も、物語の筋から想像される通りの北欧神話を想起させるもの。ヴァルハラも神々の神殿らしい荘厳な城。わかりやすく劇としても楽しめるうえに、歌も音楽も良い。初めての「ラインの黄金」として最適に思います。

 

第1場の人魚たちは妖しい美しさがあるし、アルベリヒは声は良いけれど人魚が嫌がるだけの醜さ、人間ではないものらしさがある。馬鹿にされ憎しみと怒りで愛を捨て去ったアルベリヒの哀れさも、この演出だと伝わりやすく思えます。

 

第2場の神々の長ヴォータンも妻フリッカも、妹のフライアも神の一族らしい。それにしてもヴォータンの契約は、神にとって絶対に失えない力の源黄金のリンゴをフライヤと共に失うことになる以上、最初から履行の無理な契約だったと思えますが。

ローゲは「女性の愛以上に価値があるものはない、それを唯一断念した者、アルベリヒがラインの黄金を指環にうった」と歌い上げる。ここでローゲは、どういう意図で指環のことを教えたのか?神々が欲しがることがわかっていただろうに、人魚らに返せる可能性があると思えたのか?巨人も欲しがって報酬のフライアの代わりにすると言わせたのが目的で成功したということか?演出によって、ローゲの演技、表情も違う気もしたし、気になるキャラクターです。

 

第3場のニーベルハイムでのアルベリヒとミーメでは、以前に観た演出より、ミーメら小人族が哀れな存在に見えやすい演出だけれど、ミーメが後にジークフリートを育て上げるときには、どのような人物像の演出になるのか気になるところです。

ここでアルベリヒの歌う隠れ頭巾によって「自分はどこにでもいる、いつでも見ている」という部分は、監視社会、ディストピア世界をイメージさせるように思いましたが、ワーグナーにその意識はあったのだろうか?

 

第4場でヴォータンが暴力によってアルベリヒから指輪を奪ったのは全く理不尽。もちろん、元々アルベリヒも人魚から黄金を奪ったのだけれど、それを指環にするには愛をあきらめるという代償を払っているのだから、奪われた指環に呪いをかけるのは当然だろう。

地底から現れる女神エルダは、雰囲気が恐ろしくて、とても良い。早速呪いは発揮され、指輪を手に入れた巨人が殺し合う。ヴォータンは呪いの恐ろしさを思い知っただろう。しかし最終的には、この警告に従ったヴォータンも不安から逃れられず、神々の黄昏は避けられず、シリーズのラストでは終末を迎えるのですが。しかしこの演目のラスト自体は、闇をはらう雷と虹の美しさ、神々しさもあり、必ずしも悲劇的な結末は暗示していない美しさで、拍手したくなるエンディングでした。劇として物語として楽しめる演出に思えます。

 

「ラインの黄金」は、まだ舞台でリアルでは一度も観る機会がないのですが、以前にこちらを観たことがあります。

バイロイト祝祭劇場 1991年
指揮:ダニエル・バレンボイム
演出:ハリー・クプファー

 

こちらも音楽、歌は良かったのですが、演出がモダンな新演出。

神々の衣装も現代の人間風。解説には「「共産主義諸国が次々と瓦解し始め、世紀末の気分が高まっていた」時代の作品であり、「旧東ドイツのクプファーは、資本主義と殺戮と環境破壊が常態化した世界を」「マス・メディアを通して『眺める』という態度を身に付けた20世紀の人間の姿を、『指輪』の物語に反映」させた」とあり、開幕後、序奏の始まる前に無言で暗闇の中に人々が立ち尽くす場面があるとか、登場する神々の衣装が現代の洋服であること、第3場のニーベルング族の居地ニーベルハイムが現代の工場のようで白い作業着を着ていることなど、現代的な含みを持たせた演出でした。

 

戦争をテレビやネット越しにコンテンツとして眺めるというのは、湾岸戦争やロシアのウクライナ侵攻をイメージさせ、それを踏まえて観ると、まさしく現代の観客に一層考え感じさせるものがあるとは思うのですが、純粋に叙事詩として物語劇として楽しめるのは、今回のMET版の方に思えます。

 

ただ、感想会に出て他の方の感想を聴いているうちに、私が見た順番が、初めにバイロイト版のモダンな演出を観たことで「?」と思う部分が大きかったのですが、これが逆の順番、最初にオーソドックスなMET版を観て、それからバイロイト版を観ていれば、「お?これは変わっている、でもこれもまた面白い、かな?」と思った可能性も高い気もしてきました。オーソドックスな演出は、ある意味子ども向けファンタジーと思える。ワーグナーにその意図があったかどうかわかりませんが、現代社会への、資本主義社会への批判、批評が描かれているようにも思え、それがモダン演出で一層描かれているようにも思える。複数回、オペラを観る機会があれば、こういったダブルミーニング的な演出こそが面白いという気もします。