沼野雄司『トーキョー・シンコペーション: 音楽表現の現在』
とても面白く読みました。
藝術系の本でも、絵画系の本は口絵に絵や写真があれば、それに依って読めるけれど、音楽系の本はプレイリストやQRコードでもあればともかく、聴けないと想像できないし読みにくいし語りにくいことが多いと思っています。しかし、この本は読むだけでも非常に面白く読めました。音楽を語るのに音楽だけ取り上げるのでなく、視覚的な美術作品を比較であげくれたり、小説や映画なども取り上げてくれている点などで、言わんとしていることがイメージしやすかった。
が、そうは言っても、せっかく取りあえずは読み終えたので、今度は、もう少し触れられている曲や作品について聴けるものだけでも聴いたりしようと思っている。
印象深かった気になる箇所、読書メモ:
〇1章 音楽の視覚性/視覚の音楽性
(p.8)演奏会において演奏者の身体運動を目にすることが、聴くことと複合的に行われていることに言及されていた。先日読んだ「美学入門」から、私はなぜ演奏会に対面で聴きにいくのだろう?何のために行くのだろう?と考えていたのですが、この視覚も求めているというのは確かにあります。実際、前の席の人が体を乗り出して舞台が見えないと、音は聞こえていてもイラっとしますから(笑)。そして、楽団演奏者は、あまり動けないからその分、指揮者がというのもあるなあ。先日の豊田市での演奏会でも、ブルックナーがイマイチわからない、聴いてもついていけない分、指揮者の井上道義さんを眺めたりしていましたし。
〇7章 表象不可能性と音楽
この章は、もっとも印象深かった章の一つ。
つい最近、映画「シンドラーのリスト」について、付け加え演出することで、歴史的事実をフィクション化してしまっている批判について、別のところでも読んだところで、この章を読んでその意味、言わんとしていることがよくわかりました。アウシュビッツの後にはもう何も表現できない。その通りだけれど、それは全ての表現について言える。もしそうだとしてあきらめるなら、すべての真実は、アートでだけでなく、ドキュメンタリーでも写真でも、ありえない、不可能となってしまうとも思える。そういった作り表し伝えることが不可能なものをどう作り伝えるか、その取り組みが紹介されていて非常に興味深かった。ゲルハルト・リヒターのビルケナウを観たときのことも思い出し、そのときより深く捉えなおせたように思ったし、展示で観る前に、この章を読んでおきたかったとも思いました。
〇8章 地図・領土・美術館
この章も非常に面白かった。
(p.131)「地図として書かれている楽譜が、実際には近視眼的なカーナビとして機能してしまうのではないか。」という指摘が面白い。以前に、現代音楽についての別の本を読んだ際に、プログラムで厳密に楽譜から音を出し演奏させることについて考えたのですが、厳密、完全に再現するという完全性の解釈で、また別の音楽が生まれるように思います。
また、美術館に収蔵されるものは新しいものだが、収蔵された瞬間に古いものになり、今後同じものを作っていはいけない、もうあるもののリストになるという指摘点も面白かった。
〇9章 カノンと1ミリ
この章もとても面白かった。(p.136)「厄介なことにクラシック音楽には演奏という要素がある。マイナーな曲を響かせようと思ったら、パート譜を作り(大変にお金がかかる)、奏者もゼロから楽譜を読んで練習を積み、チケットを買う方もバクチになるから、売れ行きはかんばしくない」は確実に絶対にある。海外からの来日公演で高いチケットの演奏会は、カノン、オーソドックスな曲が並ぶし。名曲以外の曲を演奏するハードルは高いだろう。実際、世界初演は、まだプログラムにあるし、それにつられて私も聴きにいったことがありますが、なかなか初演のみで再演されないとも聞きますし。名フィルの定期演奏会で初演がやれているのは定期会員がチケットを買うからもあるのかもしれません。
そういった名曲、カノンについて、1ミリ、少しだけ押し働きかけているという方策は面白く期待します。(しかし、名曲〇〇選は私も大好きです)。
〇14章 音楽における「日本的なもの」
この章も気になった、心に残った章。
(p.237)「ある一定の民族なり文化の表象をみた時点で、その作品は一種の逆になってしまう。」との評価は、言葉としては難しいけれど、紹介されている取り組み、作られている曲は興味深く聴いてみたい。
日本の現代美術は日本ならでは、日本の何かを土台にしてほしいとの気持ちはある。今の時代、そんなナショナリズム、国に帰するものは、実際にはないのかもしれないけれど。たとえばドイツオケではドイツの曲を、チェコオケではチェコの曲が聴きたい気持ちはある。それもまたカノンだろうか。