古典の日フォーラム 能 野宮 | 翡翠のブログ

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今日は、第1回『古典の日』フォーラム 美しき愛知というイベントに行きました。能もあったので、今年の能、4舞台目。

 

◆式典

・筝曲と「古典の日」宣言
 演奏 / 『宇宙の詩』 愛知県立江南高等学校 筝曲部
 宣言 / 中西美友(南山高等学校女子部)

・知っていますか「古典の日」 山本壯太(古典の日推進委員会アドバイザー)

◆源氏物語に恋して
・お話「世界の中の源氏物語」 / 高橋亨(名古屋大学名誉教授)

・バイオリンと朗読と舞踊 『桐壺』
 バイオリン 高橋妙子
 朗読 むすめかぶき 金城学院高等学校
 舞踊『桐壺』 花柳京平 市川櫻香

・能『野宮』
 シテ(六条御息所)梅若紀佳
 地謡 久田勘鷗 梅若紀長 梅若志長 松山幸親

 働キ 瀬戸洋子

◆特別講演
・「古のこころ」青山俊董(大本山總持寺西堂・愛知尼僧堂堂長)
司会 高井 一

 

能「野宮」に惹かれて行くことにしましたが、このフォーラムの活動も、それどころか「古典の日」も全然知りませんでした。

なんでも、1000年前の紫式部日記の11月1日に初めて明らかに源氏物語への言及が記載されていたことから、2008年11月1日を古典の日にしようとの宣言が源氏物語千年紀よびかけ人、委員会から出され、記念式典が国立京都国際会館で行われ、その4年度2012年に、正式に古典の日に関する法律が公布施行されたのだそう。

 

紫式部日記の記載は、藤原道長邸での宴席で酔った藤原公任が、「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」(このあたりに若紫はいらっしゃるかな)と紫式部をからかって「若紫」と呼びかけ、それに対し紫式部が、「源氏に似るべき人も見えたまはぬに、かの上はまいていかでものしたまはむ」(光源氏に似ている人もいらっしゃらないのに、ましてあの紫の上がいらっしゃるでしょうか)と、からかい返したという場面です。そのころには既に宮中の人々に広く読まれていたということらしい。

 

紹介された宣言と法律の中では「古典」についても、「第二条 この法律において「古典」とは、文学、音楽、美術、演劇、伝統芸能、演芸、生活文化その他の文化芸術、学術又は思想の分野における古来の文化的所産であって、我が国において創造され、又は継承され、国民に多くの恵沢をもたらすものとして、優れた価値を有すると認められるに至ったものをいう。」と定義されている。ここで、生活文化まで広く含められていること、つまり、お花やお茶、和食、日本酒等々、生活に根差し伝えられてきたものも広く「古典」とされていることが重要であるとの解説もあり、非常に興味深く思いました。現代に伝わる古典を思い返し、味わい楽しみ伝える日があるというのは、今回参加して知ることができて非常に嬉しい驚きでした。

 

今年の能の4舞台目は能「野宮」。

嵯峨野の野宮を訪れた僧の元に現れた六条御息所の霊が自分の思い出を語り、妄執を晴らすための回向を頼み、舞いを見せるという演目。

源氏物語「賢木」の巻の六条御息所と源氏との別れ、「葵上」の巻での事件の後に、源氏との仲を断念し娘の斎宮について伊勢に下向を決めた六条御息所を源氏が訪れ歌の贈答を交わし別れながらも執着を断ち切れないでいること、そして「葵上」での車争いの場面などがシテから語られます。六条御息所が同じく描かれる「葵上」とは異なり、霊ではあるけれど御息所が美しく哀しく描かれています。「葵上」は何度か観たことがありますが、「野宮」は初めて観ました。動きも展開もダイナミックな「葵上」は、能を楽しむには観やすく面白い好きな演目ですが、源氏物語の登場人物の中では六条御息所がとても好きなので、その愛や哀しみが美しく描かれる「野宮」も良い、好きな演目に思われました。

 

ただ今回は、後場の御息所が登場する以降だけを上演する「半能」で、かつ囃子方もなく、後シテと謡方だけの上演で謡方が地に加え僧の台詞も謡っていました。でも仕舞とは異なり、シテは衣装装束と面を着けていらしたので、半能の舞台として美しさを味わえましたし、囃子がいないと舞が寂しいですが、代わりに謡は聴きやすく、言っていること、内容は良く伝わり、御息所の哀しみや囚われた妄執にも共感しやすく思いました。とはいえ、やはり機会があれば、前場もあり、囃子方もある正式な舞台も観てみたく思います。

 

最後の青山俊董さんの特別講演では、「古」について、「道」についてお話されました。中でも、修道院でのテーブルセッティングの役割の話、「嫌だ」「意味がない」と思って、ただやっているだけでは時間を無駄にしているだけだが、そのセットの相手のことを祈りつつ並べれば、祈りと愛の時間となるという事例、時間を使うとは、命を使うということという言葉が印象深く心に残りました。毎日を過ごすとき、それは自分の時間を使うことであると同時に、自分の命を使っている、使い続け消費続けているのだということは、時々は想いを馳せても、なかなか常には思えないことだよなとも思われました。

 

古典の日フォーラム、とても良い心に残ろイベントでした。