ザルツブルク音楽祭2021 歌劇『ドン・ジョヴァンニ』 | 翡翠のブログ

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久しぶりのオンライン動画 オペラ鑑賞感想会のために、課題オペラを観て、小室敬幸さんのレクチャー付き感想会に参加しました。

 

課題動画:ザルツブルク音楽祭2021 歌劇『ドン・ジョヴァンニ』 NHKオンデマンド

演出・美術・衣装・照明:ロメオ・カステルッチ
ドン・ジョヴァンニ:ダヴィデ・ルチアーノ
騎士長:ミカ・カレス
ドンナ・アンナ:ナデジュダ・パブロワ
ドン・オッターヴィオ:マイケル・スパイアーズ
ドンナ・エルヴィーラ:フェデリカ・ロンバルディ
レポレッロ:ヴィート・プリアンテ
マゼット:ダーヴィト・シュテフェンス
ツェルリーナ:アンナ・ルチア・リヒター
管弦楽・合唱:ムジカエテルナ
男声合唱:ザルツブルク・バッハ合唱団
指揮:テオドール・クルレンツィス
収録:2021年8月4・7日ザルツブルク祝祭大劇場

 

ドン・ジョヴァンニは、これまで動画、DVDで2回観たことがあります。

1954年ザルツブルク音楽祭、指揮:ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、演出:ヘルベルト・グラーフ の動画と、1987年ミラノ・スカラ座、指揮:リッカルド・ムーティ、ミラノ・スカラ座管弦楽団、演出:ジョルジョ・ストレーレルのDVDを。どちらも割とオーソドックスな演出と思います。

 

今回視聴した動画は、演出:ロメオ・カステルッチで、作品紹介に「意味ありげな象徴が次々とばらまかれ、ドン・ジョヴァンニとレポレッロが同じ服装で登場、常識にとらわれない解釈で、名作に新たな光を当てる」とあり、現代風の新しいドン・ジョヴァンニらしい。

もっぱら服装で登場人物を見分ける私にとって、同じ服装で演じられると見分けるのがきつい。この二人だけでなく、もっぱら白い画面、白い背景、白い衣装だし・・・。

 

読書会イベントページに、鑑賞の楽しみ方として、こちらのブログが紹介されていたので、ありがたくさっと目を通し予習してから鑑賞。

 

ブログでは演出について、「ト書きから離れてイメージを自由に膨らませ視覚的美しさを創る」「BGP(バック・グラウンド・ピクチャー)と思って深く考えず視覚的に楽しみながら音楽を聴くのが良いと思う。」とあったので、「なるほと、先入観をとっぱらって、物語の進行だけにとらわれないようにしよう」思いながら視聴しました。

もちろん、こういった情報を入れないで初めて観て驚きを楽しむ観方もあると思うのですが、私はわりとオーソドックスな演出が好きな方なので(配信されたウィーンフィルの現代版椿姫も興味深くは思ったけれど、ちょっと合わないなと思って観たので)、観る軸をあらかじめ変えておくことで、面白く思って受け止められて良かった。

 

序曲が始まる前の教会の内装を現代の格好の人たちが片づける場面は、結構時間もしっかり取られていて、十字架も何もかも無くなったところで、あの序曲の音楽が、ヴァーンと始まって、すごく意味深。意味ありそう。現代に神は居ない、信仰が無いとか、だろうか? 山羊が舞台上を走りすぎ、舞台に火が燃え上がるのも意味ありげ。以前に観たドン・ジョヴァンニは最後に地獄の業火に焼かれていたし。そして、裸(の扮装)の女性が走り逃げる。

 

ブログには「曲芸師がボール技を披露したり、車椅子やピアノが天井から落ちてくるシーンがあるが、これはドン・ジョヴァンニが女性を弄び邪魔者を排除するイメージを表しているのであってそれ自身に意味はない。」とあったため、知らずに初見だと?でいっぱいになりそう部分も、とらわれすぎず、イメージ表現なんだと思いながら観るのですが、それでも、ボール技がすごくて、そちらに目がいってしまったり、父親の遺体の代わりに杖にすがるとか、ボールを突き刺すとか・・・。プードルに、またもや目が離せず。いや、音楽とアリアの歌は、すーっごく素晴らしいのですが、つい、目がそちらに。

感想会では、こういった演出について、こういう意味かも、ああいうことかも、など考えを交換し合い、推理しあうのも面白かった。そういう楽しみはオーソドックスな演出ではない面白さか。参加グループの中に、初めてオペラを観た方がいらして、でもこの演出だからこそ、?とか次は?との思いで眠くもならず、最後まで楽しめたとも言ってらっしゃいました。


ドン・ジョヴァンニは多くの女性と関係をもつキャラクターとはいえ、旧来の舞台ではもちろんリアルな演出はないのですが、今回の舞台では、ヌードの場面も多く、結構、性的な場面を表しているよう。ブログには「彫刻やバレエを観てるようで愛撫シーンでもいやらしくない」とあったのですが、動画では胸や局部にぼかしが入っているけれど、舞台会場ではそんなもの無いと思うと、なかなか、どこを観れば良いのか困りそう。

そういえば、ドン・オッターヴィオがプードルを連れているのも、プードルが奇麗に刈り込みされていることから、ドンナ・アンナと結婚したら、同じように自分が飾るもの、自分を飾り引き立てるものとして、アンナを扱うことを表しているのかもとも、ちらりと思ったり。

 

旧来の演出、舞台では、ドン・ジョヴァンニが2000人もの女性と関係したというようなセリフはあっても、私の中では抽象化というか、単なるセリフ、数のようにしか受け止めていなかった気がします。今回の演出では、リアルな体験として、加えて相手の女性側も命ある人間であり、消費され損なわれた存在として描かれているのかなあと、登場した大人数の無言の女性を観て感じたり。女性たちは、舞台地元の人々らしい。

この大勢の女性が無言で歩いたり回ったりする部分は、不気味であると同時に、迫力もありました。今回の演出では、騎士長の像も登場しないのですが、代わりに黒いベールをかぶった女性が大勢動く部分も同様に、不気味でなかなか面白い演出でしたし。先日観たグラインドボーン音楽祭2005のヘンデル「ジュリオ・チェーザレ」も、感情を表すのにダンスが使われていた場面が非常に良かったのですが、それ以上に、この演出はメッセージ性があるように思われました。

 

レクチャーで、モーツァルトの3作品「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」の関係について、その中で性愛がテーマとなっていること、キャラクターに類似点、置き換えがあると考えられることが説明されて面白かった。実は「コシ・ファン・トゥッテ」はDVDを持っているのに観たことがなかったので観てみよう。

 

演出の変化としてレクチャーで、

①主人公像 アンチヒーローダークヒーロー? 悪役?
②アンナと情事を終えた後か? 同意の上か?
③エルヴィーラの設定
という3視点があることが紹介されたのですが、なかでも②について、今回の演出では、「アンナは、最初の場面の前場でジョヴァンニを拒絶していない、騎士長に見つかったから嘘をついて拒絶したふりをした」との見解を聴いて、目からうろこ!でした。 

 

ドン・ジョヴァンニで一番私が観たい(というと語弊がありますが)場面は、最後のドン・ジョヴァンニが地獄に引きずりこまれる場面。上に挙げた1954年ザルツブルク音楽祭版や1987年ミラノ・スカラ座版では、炎に焼かれるドン・ジョヴァンニの姿に「あの恐ろしい状況で、最後まで悔いない、自分の信念を通すジョヴァンニの筋の通し方に、何か一周回って惹かれるものがある気すらする。ジョヴァンニは、超常的な力のあるものを恐れるように、恐れて正しくなるように迫られる。しかし頑として折れない。18世紀に描かれた物語としては、結果として超常なるものに伏さない悪は罰せられる。しかし悔い改めないと観るのではなく、折れないと観ると、人間のはかない、でも意志を感じるような気もする。ただ、やっていることは、単に女性をたぶらかしたり、襲っているだけだからな・・・。」という感想を持ちました。

今回のラストでは、やはり同じように反省を拒否し、裸でのた打ち回って苦しみ恐怖に恐れながら。石像となって死んでゆくと表現されていてました。騎士長の石像は出さず、ジョヴァンニの死を石像となることで表現したのは、なぜだろう。

さらに他の登場人物と同じポーズ?の石像も登場するような結末が「?」だったのですが。レクチャーで、「通常、大団円で6人で歌う「ああ、あの悪者は」を、合唱で歌っているのには意味があって、「罪を犯したのは、罪を持つのはドン・ジョバンニだけでなく、お前たち6人もであり、だから結果、石像になる。さらに、観客にもお前たちもまた罪あるもの」とも言っているのかもしれないという見解に、また、おお、なるほど!でした。オリジナルの結末の演出、急に勧善懲悪で、「私たちは善なるもの、それに対して悪人の死にざまは、その生き方と同じでひどいもの」と歌いあげるところが、なんだか私の中で居心地悪、唐突さを感じていたので、この演出は現代っぽい、ある意味受け入れやすいようにも思います。
 
昨日のカルメンのように、いかにも劇らしいオーソドックスな演出で、いつもの音楽、歌を楽しむのも楽しいですが、この演出のように頭をひねりつつ、次はどうなる?とドキドキするのも面白いです。