3日連続で読書会に参加。課題本は、
フィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
この本を課題本にした読書会には、以前、5年ほど前にも参加したことがあります。今回の読書会でも、何人もその時の読書会に参加したことがあるという人がいました。久しぶりに読み直して、やはり面白い本でした。映画を観たせいで、イメージが映画の映像やストーリーで上書きされていた部分が多々あり、あれ?こんな展開、キャラクターだったっけ?と思うところもあり、それがかえって新鮮でした。
読み返してみて、一番考えたこと、そして読書会でも話題となったことは、アンドロイドと人間の違い、境界とはなんだろうか?ということでした。
その点を、デッカードもまた不安に思っている、違いはあると考えたり、その境界の曖昧さに悩んだり逡巡したりしている。作中に描かれるテスト自体、非常に曖昧としか思えない評価基準で、対象者の成長過程、文化背景により差が出るとしか思えない。現代の私が受けてパスするか疑問だし、作中の世界でもアンドロイドを見分けることはできても、人をアンドロイドと誤認することはありそう。実際、作中の登場キャラクターは境界があいまいで、人でありながらムードオルガンによって感情をコントロールされる人類、オペラ「魔笛」でアリアを歌いムンクの絵を人が観るように感じたいと考えるアンドロイド、ルーバ・ラフト、共感力を持たないはずなのに仲間のアンドロイド、アームガード・ベイティーの死に悲鳴をあげるロイ・ベイティー。偽の警察署に連行された際には、主人公のデッカード自身、自分の記憶を疑い、賞金稼ぎのフィル・レッシュもまた自身の記憶を疑い、デッカードにテストをさせる。フィル・レッシュは、テストにはパスし、デッカードの疑いを晴らすけれど、自分自身でもおかしく感じていたガーランド警視らの以前からの記憶がある点はどういうわけだったのだろう?
その境界がもっとも曖昧なのがレイチェル。レイチェルは、なぜデッカードにローゼン協会の意図をばらしてしまったのか?ばらさない方が合理的に考えてうまく計画が進むし、実際に、ばらしたことによって計画が失敗し、デッカードがアンドロイドを処分してしまったとも思える。さらには、なぜ山羊を殺したのか? アンドロイドたちを処分したデッカードへの復讐?しかし、やり返すというのは人間のやること。レイチェルはアンドロイドらしくない、不合理な行動をとっている。その不合理さにデッカードが、ゆらぎ、惹かれたのだろうけれど。
そもそも、レイチェルは生まれて2年、そしてあと2年しか寿命を持たない。アンドロイドが共感力を持たないのは設計された脳の機能によるだけではなく、成長過程にもよるのではないか?最近、ちょうど子どもの成長や教育に関する本を読んでいるのですが、人間だって低年齢時には自分ではない他者の考え、見え方が自分と異なることを想像できず、実際に見、体験する単純な客観的な事象しか理解し考えることはできず、経験や訓練によって抽象的なものを考える力を体得していく。比べてアンドロイドらは知識は持っていても、自身が愛されたり慈しまれた経験を持たず、それで共感力がないのは当然ではないだろうか?
読書会では、デッカードが最初に会ったレイチェルが自身をアンドロイドとは知らなかった体なのに、呼び出されて来て関係をもったレイチェルの語るこれまでやってきたこととが合わない、同じ型の別のアンドロイド個体なのでは?との意見があり、なるほど、面白い、そうかも。同じ型のレイチェルが協会にはたくさんいるかも。
マーサー教の意味、位置付け、寓意は今回読み返しても、やはりわかりにくく、読書会でも疑問が出て話題になりました。
自分の感情をコントロールするオルガンは、実際、現代でも求められそう、実際ありそうなシステムですが、共感(エンパシー)ボックスによりVRでつながり、喜びや悲しみを共有し共感する装置と宗教、VR世界ではひたすら荒野を歩き登り、石を投げつけられ、その石にあたると現実の肉体が傷を負うという意味、いったい何が、このシステムを用意し人類に提供しているのか、目的はなんだろうかと。
その嘘、フェイクは、アンドロイドのバスター・フレンドリーによって暴露されてしまうのだけれど、アンドロイドらが期待したようには人類はダメージを受けなかった、アンドロイドが持てず、人間との違いとされてきた共感、感情移入が偽りのマーサー教のシステムによるものとアンドロイドたちは考えていたが、そのシステムがフェイクであっても、デッカードはマーサーとのつながりを失わなかった。
客観的に正しくないと証明されたことを、主観的な体験をもって信じ続けられることが、人とアンドロイドの違いなのか。ただ、ちょうど昨日の読書会の課題本「脳は世界をどう見ているのか」を読んだところで、誤った信念を信じ続け、それを広げてしまう人の脳の営みについて読んだところでもあったので、それが人ならではとは思っても、将来的に正しい姿ではないようにも、今回は思えてしまいました。
AI が現実味を帯びていたからこそ、AI と人間の違いとは何だろう?境界はあるのか、今後もあり続けるのか?という問いは、一層現実的な問いかけになってきたように思います。読書会では、アンドロイドによる歌、演劇、AI による絵画、作曲についても話題になりました。人なら時間をかけて訓練をして身に付ける発声の基礎をアンドロイドなら簡単に正確に誤りなく身に付け実行できる、人の経験が表現を裏打ちするのだと言う人はいるかもしれませんが、それは本当だろうか?本当に私たちは、それを見分けられるのだろうか?素晴らしいと感じた絵や音楽がAI によるものだと知ったら、その価値は減ずるのだろうか?ショックを受けるのだろうか?人ならではの発想、発明という考えも実は幻想かもしれないとすら思います。現代ならでは一層考えさせられる物語が1968年にすでに書かれていたとは驚きなのですが、そのような驚きを伴う物語がAI によって生まれることは今後起こりえるのだろうか?。