名画の生まれるとき 美術の力Ⅱ | 翡翠のブログ

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今日は、宮下規久朗「名画の生まれるとき 美術の力Ⅱ」が課題本の読書会に参加しました。

 

著者の宮下規久朗さんのレクチャー付き、ゲストイベントです。以前にも名古屋市美術館でカラヴァッジョ展があったときに、課題本「闇の美術史」で読書会に参加していて、そのときにもレクチャー付きで大変面白いくお話を伺いました。

 

 

また、今回の本の前作、「美術の力」の読書会にも参加していて、そのときにも大変興味深く課題本を読みました。

 

読んで印象に残ったところ読書メモ。

 

◆鑑賞眼の養成について

「元来、美術というものは歌謡曲や映画とちがって、すぐに誰にでも入ってくるような安易なものではない。言語と同じく、ある程度の素養が必要であり、センスや好き嫌いではなく、前提となる知識があってはじめて理解でき、感じることができるものなのだ」(まえがき p.4)

美術を観る力、素養育成の必要性については、前作「美術の力」にも、自由に描かせるだけでは不足であり、美術史を学ぶことや古今の実際の作品を観ること、名画を模写することが技術や鑑賞眼を養い、それなしでは「鑑賞する時も自分の感性だけで見ればよいという姿勢に結びつく」「好き嫌いだけで見ればよく、色や形の美しさを感じるだけでよいという誤解」「知識があれば、鑑賞を深めることができる」(p.136)と、日本の美術教育に対する懸念、問題提起が述べられていました。この点、共感し納得することがあって、美術を観る力につながればと、関連しそうな本を読み読書会に参加していますが、それでも内心、それが必要なのは評論家であって、楽しみに絵を観る私のような一般の人は、好きかどうかで観れば良いのでは、そして評論家の述べてくれる批評を面白く楽しみ読めばよいのではないかと思う気持ちが根底にあります。

ただそのうえで、訓練しないと広がらないのは味覚も同じ。嫌いな食べ物は食べなれていないからかも、食べなれて初めて美味しいと気が付ける味もあるとも思えるので、美術もまた見慣れて観方も知って、より深く味わえる作品もあるだろうとは思います。

訓練、鑑賞眼の養成、知識を得ること、学ぶことが重要であるのかもしれないが、観る回数、観に行く機会の手軽さは必要に思います。カラヴァッジョの「聖マタイの召命」のキリストが、左端のうつむく男の表情は直接近くで観てこそではないだろうか、近くで観てみたい。

 

◆オンラインと対面

オンラインで実施された学会全国大会の開催側であった経験から、以前に対面で行った同様な運営では満足感があったが、今回は疲労感ばかりで達成感がなかったと(p.193)。

終わったあと虚しさを感じる。ビデオインスタレーションの展覧会と同じ、通常の展覧会であれば、作品が撤去された後の展示室に、気配や記憶が濃厚にとどまっているが、ビデオアート展示室では、「映写機だけがぼつんと置かれて」と。

さらに、オンラインでの大学授業は壁に向かって話しているようで、やりがいがない。人と会う時にも、スクリーン越しに長時間話しても、実際に会ったときほどの印象は残らないと。

 

よく言われる、聴く、見る見解であり、感想なのですが、本当にそうだろうか?特に展覧会後の部屋に感じる違いは、人と関わり話した記憶に引きずられているように思う。

人との関わりについては、たとえば確かに遠く離れた家族の元に実際に訪問し、一緒に食事をし、年をとった親の手を握り、背中や足に触れ、援助をし手助けをするのと、オンラインでは全く比べ物にならないのは確かだけれど、送り出したあと、別れた後の寂しさは、会っても同様に感じる気がするし、それがましてや講義であるとき、対面でしかできない講義というものが本当にあるだろうか?(実験、実習など設備が必要なものを除いて)。

もちろん美術品、工芸品、建築は、その場を訪れて本物を見るのが一番であり、他の方法は全く代替にならないのは確かだけれど、誰もが評論家らのように世界中の美術館を訪れ、もしくは寺院を訪れることができるだろうか?それができないとき、たとえばプロジェクター投影を使って、実物大で投影し、その大きさを、迫力を知るという方法はあるのではないだろうかと思う。

このように感じてしまうのは、オンラインの良さを感じている自分が否定されているように感じてしまうからなのかも。p.198「小便のキリスト」「聖処女マリア」に紹介されているような、作品により信仰を否定されたと感じる人と通じるかもしれない。

 

とはいえ、生の作品を観てこそ感じる感動はもちろんあるとも思います。作品の質感とか。いや3Dプリンタならそこも再現できるかもしれないので、最後は気持ちの問題なのか?でも、現地の美術館や寺院等で観ることができたら、それだからこその気持ち、感動は絶対あるだろう。そう思うと、私のモヤモヤした気持ちは現地に行ったことがないひがみなのかなあ。

 

◆美術作品は文脈によって意味が与えられる

あいちトリエンナーレ2019の慰安婦像と表現の不自由展をめぐる一連の騒動について。「一般客の多くは、非日常の美の世界に触れることを期待したであろうが、生々しい政治の現場に直面させられた気がして戸惑ったにちがいない」「国際芸術祭というこの晴れの舞台自体が、先鋭的な問題意識と相いれなかったといえよう」(p.232)。

確かに、この展示については、背景が、「政治と検閲」「表現とタブー」といった普遍的な問題(p.231)という文脈が十分説明されていなかった部分は残念であったけれど、この作品も、また他の様々な作品も、美しさ、心地よさとは異なる美術との出会いという点で面白かった。初めて知った美術の分野と思えた。

しかし一方で、ゴッホやカラヴァッジョのような感動があるか、好きか、と言われるとそうではないのも確かでした。メッセージ性が強いものは、非常にストレートに訴えかけてくる、伝わるものはあって、それが関心をひき興味を引くのだけれど、代わりに伝えることが単一に決まってしまいすぎ、受け取る側で、一人一人がそれぞれに受け取る、感じる余地がないようには思いました。

 

◆信仰 死と鎮魂

今回、読んで最も心に残ったのは5章、6章、美術と信仰、死と鎮魂にかかわる章でした。でありながら、なかなか文章化できないでいます。宮下先生のお嬢様は2013年に若くして癌で亡くなっておられ、亡くなられる前にはフランクルの「夜と霧」を読んでおられたそう。先生の著書には、娘さんを失った哀惜とともに、信仰への迷い・懐疑、美術の力への懐疑が時々に現れ、伝わる。

特に6章「ヨブの問い」では、クシュナー「なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記」を娘さんの死後に読み、(p.273)「悲嘆の中で再読してみると、怒りさえ覚えた。神が人の生死も左右できないような存在なら、そんなものに祈る意味があるだろうか」「娘を助けてくれと日夜祈り続けた私の祈りは無意味だったのだろうか」「ヨブの問いは、一層深まって私の前に黒々と開かれたままだ」という言葉は、何よりも共感する。

私がもし子どもを失いそうになったら、普段からの信仰心の無い私ですら、急に何にでもなんとか助けてほしいと祈るだろう。それがかなえられなくても信仰の無い私には当然なのだろう。しかし信仰を持つものであったら、そこで怒り、迷わずにいられないだろう。

 

これまで繰り返し描かれた神の奇跡の絵、しかし聖書には(p.281)「死者がどこにいて、死後の世界がどうなっているかについては、ほとんど語ってくれない」「これほど大事なことには沈黙する聖書に価値があるのだろうか」「今の私には色あせてみえる」と言う一方で、(p.283)「死後の世界」は「私のように、それを信じなければ生きていけなくなった者にとっては、存在しなければならないものなのだ」と、苦しみを吐露しておられる。これまで多数描かれてきた宗教画は、すべて同じような気持ちから描かれてきたのではないだろうか。

 

◆紹介されていて観たくなった作品、関連作品。

・映画「レンブラントは誰の手に」(p.58)

・映画「ある画家の数奇な運命」(p.234)

・映画「ダ・ヴィンチは誰に微笑む」

 

掲載されていた中で好きな作品。木島櫻谷「寒月」