読書会 監獄の誕生 | 翡翠のブログ

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今日参加した猫町倶楽部、猫町オンラインの読書会、課題本は

ミシェル・フーコー 監獄の誕生

 

がっちりしたハードカバーでページ数も360ページほどもあって、自分でだったら手に取らなかったかも。今回は二回に分けての開催で、今日の範囲は一部・二部でした。

読み始めてみたら、結構面白く読めた部分もあるのですが、ちょっと文章が難しい。抽象的というか、指示語が多いというか、文章が古いような気も。奥付を見たら2020年発行でしたが、訳者のあとがきを見たら1977年だったので、今回改版・新装されたけれど結構古くはあるのかも。原書は1975年だそう。

 

一部二部には18世紀あたりの非常にハードな処刑描写が書かれているので、少々人によっては読むのがキツイのではないだろうか。

死刑が単に人を死たらしめるものではない。苦しめ、聴衆に見せるためのものなので、死んでしまうまでいかに苦しみを長引かせ、死なないぎりぎりで痛めつけるか、そのキツさとバリエーションを競っているかのような多種多様さ。0が身体以外への刑罰、たとえば罰金、財産や地位の没収、追放のようなものとし、1が命をうばう死刑としたとき、その間がアナログの連続値のように、0.1のキツさ、0.2のキツさと差を作り出している。例えば火刑にしても、絞殺後火刑にするか、そのまま火刑にするといった具合で、それを民衆が観るというのだから、処罰感情、抑止効果、だけではないでしょう。

それでも、その在り方に疑問が起こる。殺人といった恐ろしい罪を裁く司法が、裁判官が、同じかそれ以上の殺人者となる矛盾。結果、残酷でない死刑として「断頭台」が導入されたのだそう。

 

処罰は、復讐心、憎しみといった感情が求めるものでもあるし、加えて、「将来の犯罪防止を行う表徴(p.108)」として、再び同様な犯罪が行われないようにするための抑止効果も目的である。

このとき、ある罪に対し、どうすれば十分つりあった処罰を決めることができるのか。「犯罪と処罰のつながりは最大限に無媒介なものである必要」(p.123)、「犯罪の性質と処罰の性質のあいだには正確な対応関係が必要」(p.124)ということから、自由を奪ったものは自由を奪われ、盗んだ者は没収され、汚職や高利貸しは罰金を払い、殺人には死刑、放火には火あぶりという、目には目をといった処罰が考えられるのは非常に理にも心にもかなっているように思えます。それが代わりに現代の懲役刑の年数によって重みづけがなされるようになったとき、その対応が人によって重い軽いと思われるのも当然のように思います。「どんな病気にも同じ治療を加える医者を見ている思いがする」(p.137)という感想は現代にも通じるし、死刑制度を存続するべきか否かという議論にも通じていると思います。

 

加えて、同じ罰がすべての人に同じ影響力を及ぼすわけではない、「同じ盗みを犯した二人」であっても、食うに困ってか贅沢ゆえか」「貴族の犯罪は下層民のそれより有害」と、犯罪者の性質を、背景によって刑罰の個人化の必要性が出てきた(p.113)と、歴史的経緯が述べられています。これは現代でいう理由や経緯や、本人の育成歴や精神状態を考慮した情状酌量で、非常に理解できる一方、しかし数値化しえない、神でもなければ誰でも100%正しく知り、測り、評価することのできない背景や理由や経緯による罰の程度の斟酌は、これもまた第三者から見て重い軽いと言われる原因とならざるをえない。

 

さらに現代の処罰について考えると、見せしめを目的とした処罰ではなく、罰と抑止効果と社会からの隔離と、加えて現代は「更生、矯正」が大きな目的となっていると思うのですが、ここで「懲役」「収監」は、果たしてそれらの目的を必ず果たせるのか。もちろん拘束され、移動や行為の自由を制限され、多くの場合にはそれは罰となっていると思うのですが、自由の制限と生活の保障を並べて、収監されることを苦としない人もいるのではないだろうか。この辺りは、読書会でも意見で出た通り、「監獄」「懲役」「罰」で対応するものではなく「社会保障」「社会制度」で支援するものであるけれど。

 

まだまだ前半の一部二部を読んだところでは、今後どのように理論が展開するのか見当がつきません。どのように監獄が誕生し、それが目的にかなっているのか、足りているのか引き続き後半も読もうと思います。