エーリッヒ・フロム 自由からの逃走 | 翡翠のブログ

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今日は、猫町倶楽部のオンライン読書会に参加しました。

分科会は、フィロソフィア。ちょっと敷居が高くてなかなか参加したことのない会です。

 

課題本は、エーリッヒ・フロム 自由からの逃走 東京創元社。

 

聴いたことのある本ではありますが、難しそうなので手を出さないでいました。が、最近参加した読書会の課題本「夜と霧」「ペスト」に重なるものがあると聞いて、では読んでみようか、と思って。

 

読んでみて、難しかったです、やはり。読んでは前読んだところを忘れ、思い出せず。なかなか読み進めない。読書会に参加するにはともかく読むことが必須条件なので、必死になんとか読み切ったのですが、頭の中を整理しようとしても、前の方で確か説明されていたはず・・・なんだっけ?状態で、読書会に参加しながらも、口をきくと頭から漏れそう、という感じでしたが、参加者の感想を聞き、自分のボロボロな感想をなんとか言語化して話、それに対してまたリアクションをもらうのは、とても楽しい時間でした。。

 

読書メモ: 自由には、第一の外的要因「…からの自由」と、その上の第二の「…への自由」があり、第二の自由に到達するための環境、素地が得られていない状態での第一の自由は、孤独と不安を増し、それから逃れるために権威への依存、束縛を求めて、自由から逃走することになってしまう、と私は読んだのですが。であるなら、ナチズム、ファシズムへの流れは、ヒットラーに起因するものではなく、当時のドイツだけに起こるものでもなく、いつでもどこでも誰にでもまだ起こることで、まさしく現代、今現在、起こりえる、もしくは起きていることだと思われます。

 

この自由を得たはずなのに、かえってそれが孤独を生み、自己を放棄した依存に進む姿は、現代のインターネットの姿がイメージされました。インターネットも、当初登場した当時は、初めに、リアルなつながりを阻害するものであり孤独と分断を生むと警告され、続いて実際には身近な知人とのつながりを増すコミュニケーション手段となっていることが報告されていましたが、その後、最近の在り方は、また結局、自分と同じ考え、同じ感じ方のグループでのソーシャルなつながりの中での発信ばかりがタイムラインに並び、一層同じ意見が増強されるエコーチェンバーな空間になっているように思います。インターネットの登場・普及によって、どれほどの自由な世界を人は手に入れるのかと期待していたのですが。

 

ただ、そのように悲観的にとらえていたのですが、読書会では、自分は未来に期待しているし、現在も決して悪くない、なぜなら20年前、30年前は今よりもっとひどかった、今はそれよりずっと生きやすくなっているとの意見もあって、それはそうかもとも思ったのでした。

また、この本「自由からの逃走」は、分析として面白い(この内容の本が、1941年に出たというのは本当に驚きです)けれど、それを実際にどう実践すればよいのか、どうすればよいのかが書かれていない、との私の困り感に対しては、その後にフロムの書いた「愛するということ」をお勧めされました。この本、タイトルは知っていたのですが、何分タイトルが、ちょっと合わないと敬遠していました。が、アドバイス受けて、読んでみようかと思ってもいます。