おはようございます晴れ

 

実は今日今から女性だけのスポーツ施設カー●スに体験に行ってきます。

今まで何年も迷っていたのですが、こんな体力のない私でも何かできそうなので

あと・・・お洋服代を切り詰めてお月謝を出そうと、やっと決心しましたニヒヒ

体験だから、まだ続けるかどうかはわかりませんけどね~(後ろ向き)

 

音譜今日というより最近の脳内ぐるぐる曲なのですが

洋楽です、ええかっこしいと思わないでね。

 

ビリー・ジョエルの「素顔のままで」(1977年)です

歌えないのでハミングだけですニヤニヤ

 


 


ぼくを喜ばすためと 変わろうとしないで
君にガッカリしたことなど一度もない
考えないで 距離が縮まりすぎて
ぼくが君に飽きてしまうだなんて
君が困っていたら ずっとそばにいる
二人でこんなに遠くまで来れたんだ
良い時を過ごしたから 悪い時も受け止める
ありのままの君を受け止める


流行りのファッションを 追おうとしないで
髪の色も変えなくていい
秘めた情熱を いつでも君に抱いている
そんな風には見えないかもしれないけれど
小洒落た会話なんて 必要ない
そんなのは疲れるだけだ
ただ普通に話せる人が必要なんだ
ありのままの君が必要なんだ
ずっと昔から変わることのない
ぼくの知っている君でいてほしい

 

ぼくが君を信じるように君がぼくを信じるためは
何が必要なのだろうか?
君を愛してる これからも永遠に
こころから約束しよう
これ以上は愛せないというくらいに
ありのままの君を愛してる

 

 

wikiより

ウィリアム・マーティン・ジョエル(William Martin Joel、1949年5月9日 -75歳 )は、アメリカのニューヨーク州サウス・ブロンクス出身のシンガーソングライター、歌手、ピアニスト、作曲家。

 

ポップなメロディと、都会的なアダルト・コンテンポラリー・サウンドで、1970年代後半から1990年代前半にかけてヒットを連発した。

 

全世界で1億5000万枚以上のレコード・セールスを記録している。

 

代表曲に、「ピアノ・マン」、「素顔のままで」、「アップタウン・ガール」、「ストレンジャー」、「オネスティ」などがある。イギリスのエルトン・ジョンと共に、20世紀後半〜21世紀前半、ピアノ・ロックというジャンルを確立した。

 

真顔私がビリー・ジョエルを知ったのは1977~78年頃です。

私は一人っ子のかぎっ子で、独り家の中で、TVもよく見ていましたが、小学校の高学年になると、開局して数年たった『FM大阪」で音楽を聴くのも好きな子供でした。

 

ある日ラジオから『ストレンジャー』(1977年)が流れてきたのです。

なんとなく感動というか軽い衝撃を受けました。

まだビリージョエルの事を調べる手立てもなく

ラジオから流れてきたら即テープに録音するという手段で

ストレンジャーを録音し、何度も聞きました。

 

そして同じアルバムに入っていた「素顔のままで」も同じく録音して聴いていました。

 

特別にファンになった・・・まではいかなかったですが

私はビートルズ世代よりあとの生まれだし

あの頃、なぜかすごくアメリカにあこがれていたので

デレデレこれがアメリカの、ニューヨークの音楽なんだなぁと一人悦に入って聴いていたわけです。

 

当時歌詞なんてまったくわからなかったのだから曲に感動したんだと思いますが

今こうやって歌詞を見てもやっぱりいい曲だなぁと思います。

 

皆さんが子供の頃一番最初に気になった洋楽は何でしたか?

 

 

 

おはようございますくもり

 

リウマチ持ちの皆様いかがお過ごしでしょうか

「今年に入ってから体の痛みや腫れが出ないなぁ、もう完解なのかしら?」と思っていたら

一昨日夜からドッカンとリウマチ発作がでましたよ、れっきとした「季節の変わり目」ですね。

 

花粉症で鼻もずるずるなのに、弱り目に祟り目ですね。

体、今回は特に肩が痛いよ~と寝られずにいましたら(その時によって痛んだり腫れる場所が変わることがある)

なんだか鎖骨あたりも刺すように痛い、いた~い滝汗寝られな~い、体を動かせない~あせる

 

と思いながら朝が来て、夫に痛いところに痛み止め湿布を貼ってもらって

鎖骨を触ると、まぁ、なんということでしょう

500円玉ぐらいの大きさで右鎖骨の真上がぼよんと腫れています。

 

最初はこれはどうしたことかと驚きましたが、ネットで調べると関節リウマチで鎖骨が腫れることがあるとあったので

これもリウマチ症状なのねと理解しました。

そこにもすぐ湿布したので、今日は腫れも引いてきています。

 

こんな変なところが腫れるなんて完解どころか、進んでいるのではあるまいな と思いながらも

ゆるゆると家事をこなしています。

 

 

コーヒー コーヒー コーヒー コーヒー コーヒー 

 

リウマチでない方にはおもしろくない情報でしょうから

お口直しにここでコーヒーのお話しを

(2025トイレカレンダーより抜粋しました)

 

コーヒーは、オランダ船が日本に伝えたようで、1795(寛政7)年の『長崎見聞録』に

「かうひいは蛮人煎飲する豆にて・・・日本の茶を飲む如く、常に服するなり」とある。

明治の初めには、外国人の珍しい飲食習慣のひとつとして各種の新聞などがコーヒーを紹介し

「加非」「架琲」「珈琲」などの字をあてている。

明治7年頃、洋学を学ぶ学生は、コーヒーを「豆茶」と訳せと教えられたという。

 

1887(明治20)年頃からは日本人にもコーヒーを飲む人が増えはじめ、その頃から流行した川上音二郎の

オッペケペ節で「はらにもなれない洋食を、やたらに食うのも負け惜しみ、

ないしょで後架でへど吐いて、まじめな顔してコーヒー飲む」と唄われた。

 

1888(明治21)年4月6日、上野黒門町に開店した「可否茶館」が、日本初のコーヒー店。

コーヒー1杯の代金は1銭5厘で、新聞雑誌室、更衣室、運動具を備えていた。(抜粋ここまで)

 

 

ニヤニヤいかがでしたか?私はコーヒーの苦みが苦手で飲むときはいつもカフェオレなんです

なので私が当時生きていたら、洋食よりもきっとブラックコーヒーをのんでへど吐いていたでしょうね( ´艸`)キタナクテゴメンナサイ

 

 

 

おはようございます晴れ

 

昨日は孫の入学式、そして今日は孫のお姉ちゃん(5年生)の始業式でした。

集団登校の場所まで1年生の孫の手をつないでいきました。おばあちゃんになれてうれしい瞬間でした。

 

テレビ パソコン テレビ パソコン テレビ パソコン

 

テレビ寺子屋は、見たら必ず感銘を受けるのですが、なかなか時間を合わせられず毎週は見ていませんでした。

この日曜日、久しぶりに見てやはりとても感銘を受けましたのでぜひシェアさせてください。

 

この回は「故郷・家族・学び バイマーヤンジン」さんの回でした。

お名前を存じなかったので、逆に気になったのかもしれません

 

今日は長くなりますが、この回のあらすじをまとめたいと思います。

お時間のある時に読んでみてくださいね。

 

バイマーヤンジンさん(1967~)は、日本で活躍されている唯一のチベット人歌手で、チベット遊牧民のために小学校建設を目的とした講演会、コンサート活動を行っておられます。

 

 その活動で得られた講演料でチベットに九つの小学校と一つの小学校が開校され、各学校あわせて千数百人の子どもが学んでいます。

 

 ヤンジンさんのお顔は日本人ととてもよく似ていますし、その歌唱力はまさしく日本の「民謡歌手」のそれと同じでした。

私は地理的にチベットとモンゴルがごっちゃになっていたのですが、チベットは中国の西南部に位置し(つまり中国領)、モンゴルは中国とロシアに挟まれた内陸国です。

ヤンジンさんは中国の中で、チベット人として頭角を現すごとに、中国人から強く差別される経験をされるのでした。

 

 チベットに生まれたヤンジンさんの家は代々遊牧民でした、決して裕福ではありません、兄弟は11人ヤンジンさんは9番目でした。

文字を知らないためにお母さんが、不動産のことで騙されたことや、旅行で「男」、「女」の文字が読めずトイレを間違ったこと、薬の使用方法が理解できずに誤飲して死にかけたことがありました。

お母さんは教育の必要性に気づかれ、小学校に通うのに便利な町に定住、将来は高校で教育を受けることを望んでおられました。

 

 ヤンジンさんは、家の近くに高校が無く、高校に合格したことで、なんと300キロ離れたところにある高校に進学されます。高校進学を果たしたのは地域で彼女が初めてだったそうです。

「大学」などは地域の方々はその存在すら知らなかったのですが、学校の先生に勧められ、猛勉強の末受験、合格し、声楽科に進学します。

その際地域の人が皆協力してヤンジンさんの寮生活の身の回りの支度(布団など)を手伝ってくださったそうで、ヤンジンさんは絶対に大学に行って、先生になって親を楽にさせてあげようと決意されます。(声楽の歌手になればお金を儲けることができると考えました)

 

 私たちは、チベットの壮大な風景の一面だけ見て羨ましがったりすることがありますが、遊牧民の辛さについて、

遊牧民は真っ青な空、広い草原とプラス面だけ見ればいいですが、木すら生えていない草原では「マキ」を手に入れることができません。

生き物の糞から燃料を作るのですが、背中に籠をしょって糞を集めるのは子供の仕事でした、一年中、一日かけて糞を集めていたそうです。

 

日本には蛍雪の功(苦労して学問お積むこと)という言葉が遠のいていますが、ヤンジンさんご自身は、食べる時間を削って寝る時間も惜しんで勉強されました。

高校の寮生活では午後十時で消灯になり、お金持ちの人たちは懐中電灯を買って、布団の中で勉強するのだそうです。 


 上海や北京の高校生と同じ試験を受け上級大学にはいるためには、競争社会においては人よりも時間をかけて勉強することは避けられないことだそうです。

ヤンジンさんは、家が貧乏なために懐中電灯が買えず、小さな電球が24時間ついている公衆トイレ(溝の上を板を渡しただけの便器が区切りなく並んでいるのが公衆トイレでした)の灯りを利用されます。

 

 字がだいたい読める程度の明るさだったそうで、「冬は寒くて震え、夏は臭くて外にでて深呼吸して、本を読む繰り返しでした」と、おっしゃっていました。

 

 それでも厳しい競争に打ち勝って、国立四川音楽大学声楽学部に進学され西洋オペラを専攻されます。 

 バイマーヤンジンという名前は、チベット語ではベマヤンジェン「ハスの花にのった音楽の神様」の意味があって、ご両親の夢がこめられた命名の道を歩かれているように思います。

 

 ヤンジンさんは大学生活の中で思いもよらない虐めにあわれます。

 「チベット人は山の中で暮らして野蛮だとか、汚い、バターくさい」とか言って嫌がられました
経済的な面の厳しさや、同窓生の厳しい視線に何度も退学を考えられたそうですが、母親の泣いた顔が浮かびどうしてもやめられなかったし、最初の目標があったから乗り越えられたと語られました。

 

大学に残って教えていたころ、留学で来られていたご主人になられる方と出会われ、日本での生活を決意されます。来日され想像を超えた日本の物質的な豊かさに衝撃を受けられます。

 

 「掃除機、洗濯機、炊飯器など生活の全てが機械化され、人間がどうしてこんなものを作れるか理解できませんでした。チベットでは、バスは早くて便利だと思っていましたが、新幹線に乗ってバスが遅いことに気づきました」と、当時の印象を語っておられます。

 日本の学校についても、チベットの母校とは対照的に明るく雨風の影響のない教室、きれいな校舎に驚かれ、学ぶ環境に恵まれている日本に畏敬の念を抱かれます。
来日された時、最も驚いたのは親子喧嘩でした。チベットでは食べ物が無くても、服がボロボロでも恥ではないそうですが、兄弟喧嘩や親子喧嘩は一番の恥とされ、親に反抗することは最低な人間と見なされるそうです。

 

最後に「言葉」について話されています。

「人間と動物の一番違うところは言葉を使うところではないでしょうか

悪い言葉、汚い言葉、きつい言葉をつかったりすると相手を追い詰めてしまったり悲しませてしまったり傷つけてしまうことになります、逆にいい言葉を使ったり、優しい言葉を掛けてあげたりすると笑顔にしたり希望を与えたりすることができることもありますので、私はこれからも人が喜んでいただけるように、人が笑顔が出るような優しい綺麗な言葉を使っていけたらと思っております。

(すべて綺麗な日本語でお話しになりました)

 

デレデレいかがでしたか、今の便利な生活を捨てることなどできない日本人に、どうやって人としての正しさや、いじめ差別がどのくらい人を傷つけるのかを教えられるのか、どうやって目上の人に対して敬意を払うことを教えられるのか

きちんと考えて行かないと、日本の未来は暗いなぁと思ったのでした。