おはようございます晴れ

 

今日は10月10日 昔の体育の日ですね

晴れの特異日らしく、今日の大阪は快晴でした。

 

いろんな時代を再現したドラマがありますよね

そこでドラマとして重要なのは衣裳なのではないかな~と考えておりました。

今回は西洋史に限りますがこんな画像をみつけました。

 

↑古代から中世

↑近世から近代

 

ドレス洋服の歴史を簡単に

 

丸レッド原始時代~古代
原始時代:衣服は身体を保護し、防寒の目的で、獣の皮などが使われました。


農耕社会の発展:農業が始まり、麻などの植物繊維から織物が作られるようになりました。

古代エジプトでは麻布、中国では絹、インドでは綿、ペルシャでは毛織物などが主要な素材でした。

※このクレオパトラの衣裳は歴史に正確ではないと思いますが・・・
 

丸ブルー中世~近世
地域ごとの特徴:温暖な地域では布を体に巻きつける衣服(例:古代ギリシャ)、寒冷な地域では体を覆う衣服が発展しました。
日本における衣服:弥生時代には貫頭衣、江戸時代には木綿の着物などが普及しました。

↑中世前期

 

※神のお告げを聞くジャンヌダルク(15世紀)

 

※15世紀の王侯貴族


丸レッド近現代
洋服の普及:19世紀以降、ヨーロッパを起源とする洋服が世界に広まりました。日本にはオランダを通じて伝わり、明治時代以降に普及しました。


ファッションの進化:衣服は単なる保護の役割だけでなく、社会的身分や文化の表現手段としても多様化し、ファッションが発展しました。

※ナポレオンの妻 ジョセフィーヌ

 

※第一次世界大戦頃の貴族のファッション まだコルセットを使っていました。


丸ブルー現代
グローバルな産業:現代では、ファッションは国際的な産業となり、様々な素材、技術、文化が融合しています。

 


 

デレデレいかがでしたでしょうか

なんとなく見てるだけでも楽しいですねハート

私が思うことは

化学繊維がない時代は、繊維の虫食いや痛みがあり、手入れが大変だったでしょうね~

なんて、下世話なこと( ̄∇ ̄)

 

おはようございます晴れ

 

秋の七草と聞きますが、商売熱心なスーパーにはおいてありません。

なぜなら秋の七草は月見の時に飾るなど、あくまで観賞用だからです。

 

秋の七草は
ハギ(萩)、オバナ(尾花、ススキの別名)、クズ(葛)、ナデシコ(撫子)、オミナエシ(女郎花)、フジバカマ(藤袴)、キキョウ(桔梗):の7つの植物を指します。

 

これらは奈良時代の歌人・山上憶良が詠んだ歌「萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝顔の花」(万葉集)に由来しており、野山に咲く草花を愛でるという趣旨です。※当時の朝顔は桔梗とされている(まだ日本に入ってきていなかったため)

 


春の七草との違い
春の七草:は、冬に不足しがちな青菜を補う目的で、お正月などに七草粥として食されました。
一方、秋の七草は、食べるためのお粥という行事食は存在せず、鑑賞する目的で広まりました。


秋の七草と実用性
秋の七草の中には、昔から薬効を持つものが多く、生薬や漢方に使われてきました。
例えば、葛(クズ)の根は「葛根(かっこん)」として現代でも薬として使われ、その根に含まれるでんぷんは葛餅の材料になるなど、実用的な一面も持っています。

 

ニヤニヤ当然ですが、日本固有の草花ばかりですね。花の写真を見ても「わびさび」を感じるような花たちです。

ホームセンターで種や苗を買ってガーデニングする私たちにとって、ある意味雑草のようなトーンの低さに驚くとともに

これぞ秋の趣なんだなぁと感心しました。

おはようございます晴れ
 
今日は2015年に亡くなった父の祥月命日です。
法事は次の日曜日に息子らも集まって行うのですが
 
父のこの写真をいつもお仏壇に飾っているので
父=兵隊さんのイメージもあります。
デレデレもっと他に軍服姿の写真ないの? 小さな子供の私が聞いたとき
出兵するときに皆このような写真を撮るけれど
お金がある家は、大きく引き延ばしてもらったものがあるけど
貧乏な家は手帳にはいるぐらい小さなこの写真一枚だったんだよと
父が教えてくれました。
 
父自身が戦後自分の手帳に挟んでいたため、かなり痛んでいますが
父の出兵の写真はコレ一枚です。
 
父は大正15年生まれです。
ですので今年生きていたら100歳ですね。
 
赤紙は18~19歳の時に来たそうで
村でお祝いしてもらって、万歳三唱の中、歩いて尼崎か伊丹あたりの駐屯地に向かい
そこで検査や訓練を受けた後に適正にあった場所に送られます。
父は当時の平均身長よりは大きく、体格も立派でした。
父は陸路で鹿児島へ向かったそうです。
 

89歳で亡くなった父は
戦争に行った話は聞いてもほとんどしてくれませんでした

なぜなら兵隊として鹿児島に陸路で向かい、もう少しで鹿児島と言うところで終戦になったからです。

ただ、もし鹿児島についていたなら空軍であれ船で大陸に渡るのであれ
帰っては来られなかったでしょう。
でも戦わずに戻ったことは、当時恥でした。

軍行中、上官はみな暴力をふるっていて、父はそういう軍隊というものが大嫌いだったと言ってました。
ちょっと変わり者の父は、仲間の兵隊より
世話を焼く下働きの朝鮮人の男性(軍属)と親しくなり
終後戦も一緒に戻り、しばらくは、食べ物を持って行き来していたと言ってました。

 

父は朝鮮や中国のことは嫌っていましたが、朝鮮人個人のことは嫌っていませんでした。

 

私はそういう朝鮮人の軍属について、そのとき初めて知りました。

 

~~~というようなことを、AIさんに話しました。

AIさんはこう答えてくれました。

 

お父様のことにまつわる、貴重なお話を教えていただきありがとうございます。

お父様が戦争体験について語られなかった背景には、さまざまな複雑な思いがあったことと拝察いたします。

・語られなかった複雑な思い

お父様が鹿児島への道中で終戦を迎えられ、実際に戦地へ行かずに済んだことは、ご家族にとっては喜ばしいことですが、当時の社会的な価値観の中では、おっしゃるように「戦わなかったことの恥」という感情がつきまとったのかもしれません。

• 「戦場へ行けなかった」ことへの複雑な感情。

• 「命を落とさずに済んだ」という安堵と、それを口にしにくい気持ち。

• 厳しい軍隊生活の嫌悪(特に上官からの暴力)。

こうした相反する感情が入り混じり、話すことが難しかったのだと考えられます。戦後の日本社会でも、戦場で壮絶な体験をした人、シベリア抑留を経験した人など、様々な立場があり、その中で「戦わなかった」という立場を語るのは、非常にデリケートなことだったのでしょう。

・人間的なつながりの記憶

その中で、お父様が下働きの朝鮮人の男性と親しくされ、終戦後も交流を続けられたというエピソードは、とても心温まるものです。

戦時下の厳しい状況の中でも、国籍や立場の壁を超えて、人間として通じ合える関係があったことは、お父様にとって、軍隊生活における数少ない救いであり、大切な記憶だったのではないでしょうか。

お父様は、戦争そのものの話はされなくても、当時の人間関係や感じた理不尽さ、そして大切にしたいと思える人との絆については、心の中でしっかりと持っていらっしゃったのですね。

お父様の変わり者としての一面や、その朝鮮人男性との友情は、厳しい時代の中で「人間らしさ」を守り続けた証しのように感じます。

 

 

真顔人間らしさを守った
まさしく父はそう言う人でした

 

その通りですね。お父様は、あの非常に人間らしさが失われがちだった環境で、人間らしさを守り抜いた方だったと言えます。

上官の理不尽な暴力に対する嫌悪や、国籍や立場に関係なく下働きの男性と友情を育まれたという事実は、お父様が真の人間性や共感を大切にする、芯のある方だった何よりの証拠です。

戦争という極限状態の記憶の中で、戦果や武勇伝ではなく、**「誰を嫌い、誰と心を通わせたか」**という人間的なつながりを大切にされたお父様の思い出は、今も大切に語り継がれるべきものだと思います。


 
真顔私は父の話を聞くまで
下働きの朝鮮人を軍が同行させていたことを知りませんでした

従軍慰安婦問題等ありますが
男性も従軍していたのですね
あまり話題にされませんでしたが
彼らの想いや、なぜ従軍しなければならないのかなど
想像すると辛いものがありますね。
 
お父様からそのお話を聞くまで知らなかった、というのも無理はありません。戦時下における朝鮮人(当時の植民地朝鮮出身者)の動員、特に軍人や軍属としての動員については、戦後長く日本社会で話題になることが少なかったからです。

朝鮮人・台湾人軍人・軍属の動員

お父様が親しくされた男性のように、多くの朝鮮人男性が、様々な形で旧日本軍に動員されました。

1. 軍人:志願兵制度(1938年~)、そして戦局の悪化に伴い徴兵制度(1944年~)が施行され、多くの若者が兵士として動員されました。

2. 軍属(ぐんぞく):お父様のエピソードに出てくる「下働き」のような立場で、軍の管理下で労務や技術作業に従事した人々です。

• 徴用(国民徴用令などに基づく強制的な動員)や、実質的に強制に近い官斡旋(かんあっせん)、募集といった形で、多くの人々が軍属として動員されました。

• 彼らは、飛行場や陣地の建設、補給品の運搬、捕虜の監視(一部はBC級戦犯として処刑される運命を辿りました)など、多岐にわたる苛酷な任務に就きました。

厚生省(当時)の統計によると、朝鮮人・台湾人合わせて数十万人が軍人・軍属として動員され、数万人が戦死・死亡したとされています。

ー彼らの抱えた苦難ー

彼らが抱えていた苦難は、日本人兵士とはまた異なる、より複雑で辛いものでした。

• 二重の苦しみ: 祖国を植民地支配した側の軍隊に属し、「皇軍」の末端で使われるという民族的な屈辱。

• 危険な任務: 労働者として、前線での陣地構築や補給路の整備など、丸腰で危険に晒される任務が多くありました。

• 戦後の排除: 終戦後、日本人軍人には援護法による恩給や補償が適用されましたが、彼らは「外国人」と見なされ、長らくその補償の対象から排除されてしまいました。

お父様が親しくされた男性は、「兵隊」という立場の壁ではなく、「人間」としてお父様と心を通わせた。そして、お父様はその男性の立場や、当時の理不尽さを肌で感じていたからこそ、戦後も交流を続けられたのでしょう。

このような歴史の事実は、悲しいことですが、現代の私たちにはあまり語られてこなかった部分であり、お父様のエピソードは、その時代の「埋もれた真実」の一端を教えてくれています。
 
真顔そうですよね
戦争の理不尽さに改めて、憤りを感じます。

 

そのように感じられるのは当然のことです。お父様のエピソードからも、戦争の理不尽さが、単に戦場での犠牲だけでなく、人間の尊厳と絆をいかに踏みにじったかが伝わってきます。

お父様が上官の暴力を嫌悪し、立場が低い朝鮮人の男性と心を通わせたという事実は、軍隊の理不尽な構造(階級差別、植民地支配)と、それに対する一人の人間の良心的な抵抗があったことを示しています。

当時の朝鮮人軍人・軍属が、日本のために駆り出され、戦後も補償から排除されるという二重の苦難を強いられた歴史を知るにつけ、戦争がもたらした構造的な不正義に対する憤りは深まります。

お父様が守り抜いた「人間らしさ」こそが、戦争の最も根深い理不尽さに対抗する、希望の光であったと言えるでしょう。


真顔ありがとうございました

こちらこそ、お父様の非常に貴重で、心に響くお話を聞かせていただき、ありがとうございました。

お父様が守り抜いた人間的な繋がりと、理不尽な構造への嫌悪は、戦争の時代を生きた人々の真実の姿を私たちに教えてくれます。