おはようございます![]()
お日様がカンカン照りの時はクーラーが必須ですが
まだ熱風ではなく、曇っているとクーラーはいらない・・・そんな大阪です。
さて、少し遅れましたが、スペインの「サグラダファミリア」(聖家族贖罪教会)が1882年の着工から140年以上を経て、先端には巨大な十字架が据えられ、世界で最も高い教会となって完成しました。(本当は細かいところ、まだ未完らしいですけどね)
夜の式典にはローマ教皇がミサをなさいました。
スペインはカトリック信者が多い国なのですか?AIさんに聞いてみました。
はい、スペインは歴史的に非常にカトリック色の強い国です。
スペインはかつて「ヨーロッパで最もカトリック的な国の一つ」と言われるほどで、
国王夫妻もカトリック
復活祭(セマナ・サンタ)の宗教行列が盛大
結婚式や洗礼もカトリックの伝統が根強い
という特徴があります。
ただし近年はかなり世俗化が進みました。
2026年の調査では、スペイン人の約56%が自分をカトリックと答えていますが、毎週教会に通うような「実践的な信者」は18%程度とされています。
昔は70%以上がカトリックを自認していましたので、信仰心は弱まる傾向にあります。
それでも、サグラダ・ファミリア は単なる観光名所ではなく、今も現役のカトリック教会です。
スペイン人にとっては、ガウディの芸術作品であると同時に信仰の象徴でもあります。
だからこそ教皇自らが来てミサを行うことに大きな意味があるのです。
ここからAIさんとの雑談です。![]()
そのようですね、実際に観に行きたいです。
私は小学校中学校はカトリックの学校に通っていて、言い方は悪いですがすっかり洗脳されて、働き出して自分のお金で海外旅行に行けるようになった時、バチカン市国に行ったほどなんですよ。
もちろん学校を卒業した時にはあの頃の信仰心は全くなくなってしまったのですが、『私たちを教えてくださったシスター達は、ここに来たことがあるのかしら、私なんかが観光で来て良かったのかした』と考えさせられるほど、バチカンには圧倒される力がありましたよ。
そのお気持ち、とてもよくわかります。
実際に信仰を失った人でも、バチカンを訪れたときに「観光地を見た」という感覚より、「何か大きなものの前に立たされた」という感覚を持つ人は少なくありません。
特に サン・ピエトロ大聖堂の内部は圧倒的ですね。
天井の高さ、巨大な柱、歴代教皇の墓、世界中から集まる巡礼者たち。
信仰の有無とは別に、
「2000年近く続いてきた人間の祈りの歴史」
そのものが空間になったような場所です。
ですから、私なんかが観光で来て良かったのか
と感じたのも、ごく自然な反応だと思います。
むしろカトリック学校で育ち、シスター方から教えを受けた経験があったからこそ、普通の観光客以上にその場所の意味を感じ取られたのではないでしょうか。
そして、お話を伺う限り、サグラダ・ファミリアもきっと心に響くと思います。
Sagrada Família は、バチカンのような「権威」や「伝統」の圧を感じる場所というより、「神への賛歌を建築で表現した空間」という印象を受ける人が多いです。
バチカンが重厚な歴史なら、
サグラダ・ファミリアは光そのもの。
朝や夕方のステンドグラスの光が内部を染める様子は、信者でなくても言葉を失うほど美しいそうです。
小中学校時代のシスター方がもしご存命なら、完成したサグラダ・ファミリアをどんな思いで見られるでしょうね。
お家は仏教徒で、今はご自身が檀家役員として仏教に関わっておられることを思うと、宗教は違っても、祈りや願いを託す営みには、どこか共通するものがありますね。
サグラダ・ファミリアの完成の話は、そういう意味でも感慨深く感じられたのではないでしょうか。
その通りです。
だけどうちの親も節操がないでしょう?
私が幼稚園(お寺の幼稚園)の頃、私が入ったカトリックの女学校に行けば、躾が厳しく賢い子になるだろうと思ったそうですよ、あと、スクールバスが来るので、徒歩で公立の小学校に行くより楽に思ったそうです。
私は中学を出るまで、近所に誰も友達がいない寂しい毎日だったのですけどね。
それは「節操がない」というより、昔の親御さんらしい発想だったのかもしれませんね。
特に昭和の時代は、
私立の女子校はしつけが良い
シスターの学校は礼儀を教えてくれる
公立より勉強させてくれる
スクールバスがあって安心
という理由で選ぶ親御さんは少なくありませんでした。
実際、お父様が熱心な仏教徒になられたのは後年のお話ですし、幼稚園や小学校の頃はまだ「宗教教育を受けさせたい」というより、「良い学校に入れたい」という感覚だったのでしょうね。
それにしても、小学校から中学までカトリックの学校に通い、その後は法華経に縁の深いご家庭で育ち、今は役員としてお寺の運営にも関わっておられるというのは、なかなか珍しい人生ですね。
キリスト教と仏教の両方の世界を内側から少し知っているからこそ、バチカンの「圧」も、寺院を守ることの大変さも、どちらも実感として理解できるのだと思います。
そうです。 先程洗脳と書きましたが、実際に中学に入った頃親に「洗礼を受けたい」などと言って、父親にこっ酷く叱られました。
父親の剣幕に驚いたものです、今では笑える思い出です。
それはなかなか印象的な思い出ですね。
お父様としては、かなり驚かれたのでしょうね。
おそらく幼い娘を「しつけの良い学校だから」という理由で通わせていたら、ある日、「洗礼を受けたい」と言い出したわけですから(笑)。
お父様の立場からすると、
「学校に行かせたら本当に信者になろうとしている!」
という衝撃だったのかもしれません。
ただ、私はそのエピソードを聞いて、むしろ学校の宗教教育がある意味では成功していたのだなとも感じます。
本当に何も心に届かなければ、中学生が「洗礼を受けたい」とまでは思いません。
シスター方の生き方や教えに感銘を受けて、
「私もこの信仰の中で生きてみたい」と感じた時期があったのでしょう。
それは必ずしも「洗脳」ではなく、思春期の純粋な憧れだったのかもしれません。
もちろん今のあなたは、仏教にもキリスト教にも一定の距離を置きながら、それぞれを見つめておられるように感じます。
そうでしょう笑
でも本当のところはね
毎週の学校のミサで、 カトリック信者の子は皆とても美しいベールをかぶってミサに出て
なぜかミサの途中で前に出て神父様から丸くて小さな白いものを口にいれてもらえるんですよ!
あれは何だろう?! 何を食べたの?と 興味津々でした。
ああ、それはとても子どもらしい動機ですね(笑)。
美しい白いベールをかぶった同級生たちがいて、自分はそれをかぶれない。
そしてミサの一番大切な場面になると、信者の子だけが前に出ていく。
さらに神父様から特別な白いものを受け取る。
子どもの目には、「何か秘密の仲間だけが参加できる儀式」
のように見えたでしょうね。
その白い丸いものは「ホスチア」と呼ばれるものです。
小麦粉と水だけで作られた薄いパンのようなもので、ほとんど味はありません。
カトリックではこれを「聖体」と呼びます。
最後の晩餐で、イエスが弟子たちに
「これは私の体である」
と言ってパンを分け与えたことに由来しています。
ですから信者にとっては単なる食べ物ではなく、とても神聖なものなのです。
そのため、洗礼を受けていない人は通常、聖体拝領(ホスチアをいただくこと)ができません。
だから当時のあなたは、
「なんであの子たちだけ?」「あれ何?」「私も欲しい!」
となったのでしょうね(笑)。
しかもベールは憧れますよね。
小学生や中学生の女の子から見れば、「信者の女の子だけの特別な装い」ですから。
お話を聞いていると、
「イエス様に人生を捧げたい!」というより、
ベールきれい!
あの白いの何?
私も前に行きたい!
という気持ちの方が大きかったような気がします(笑)。
実際、お父様がその理由を知ったら、
「なんや、そんなことか!」
と拍子抜けされたかもしれません。
まだあるんですよ笑
あの頃の私のようにあの白いものを見てみたい、できたら食べてみたいと思う好奇心の強い子が何人かいて ある放課後にその数人で教会に忍び込んだんですよ でも 十字架のキリストの前に進み出るのは怖くて (神父様の説教机にあると思い込んでいました) だって、とても痩せられていて、苦しそうなお顔で、手のひらからも膝からも足の甲からも血が出ている、そんなキリスト像だったんですもの。
みんなでそばでウロウロしていると
何かの物音か、ひとの来る気配がして あわててみんなで走って逃げ帰ったのです。 悪い子たちですよね笑笑
いえいえ、「悪い子たち」というより、まさに子どもらしい冒険ですね(笑)。
その光景が目に浮かびます。
私は、その話を聞いて微笑ましく感じます。
なぜなら、その行動の根っこにあったのは悪意ではなく、
「あれは何なんだろう?」「見てみたい」
という純粋な好奇心だからです。
人間の宗教心も学問も、案外そこから始まることがあります。
「なぜ?」
「何だろう?」という気持ちです。
もっとも、もし当時シスターに見つかっていたら、
かなり厳しく叱られたでしょうね(笑)。
でも長年学校におられたシスターなら、
内心では
またホスチア目当ての子たちねと思ったかもしれません。
実はあなた方のような子は、何十年もの間に何組もいたかもしれませんよ。
シスターはね、とてもお優しかったのです。
(もちろん若いシスターで、短気な方もいましたが)
私は小学校一年の時、母が胃潰瘍で手術になり長く入院したのです。
私は一人っ子だし、父は当時は夜から朝方の仕事でしたから
私は荷物を持って母のベッドのそばで寝泊まりし、そこから歩いて学校に行ってた時期があり、シスターにすごく面倒を見ていただきました。
もしかしたら洗濯などもしてもらっていたかもしれません。
中学の頃はお転婆になって、ある時理科実験室での授業で、部屋を暗幕にした時があって 私と友達は授業をサボろうと足元の空気を通す小窓から外に這いずって出たんです。
そうしたらそこには偶然シスターが立っていました。 わあ、大失敗!!と思って首をすくめて立ち上がると シスターは じろっと私たちをみてから、「お行儀が悪いですね!」とおっしゃって さっさと歩いて行かれたんですよ。
私はシスターの愛を感じました。
それは、本当に愛情のあるシスターだったのでしょうね。
お話を読んでいて、まず胸に残ったのは、小学一年生の頃のお話です。
お母様が胃潰瘍で長期入院され、まだ小さなあなたが病院で寝泊まりしながら学校へ通っていた。
今の時代ならなかなか想像しにくい状況ですが、その頃のあなたはきっと不安だったでしょうし、寂しかったでしょうね。
そんな時にシスターが気にかけてくださったことは、子ども心にどれほど心強かったことかと思います。
子どもは案外、大人が思う以上に「誰が自分を見ていてくれたか」を覚えているものです。
そして中学時代のエピソード(笑)。
暗幕を張った理科室から、小窓を這って脱出。
まるで昔の学園ドラマですね。
しかも、やっと外へ出たと思ったら目の前にシスター。
これはもう観念するしかありません。
普通なら、
「何をしているのです!職員室へ来なさい!」
となってもおかしくない場面です。
ところがシスターは、「お行儀が悪いですね!」
それだけ言って去って行かれた。
私はその一言に、そのシスターの人柄が表れている気がします。
もちろん規則違反なのはわかっている。叱ろうと思えば叱れる。
けれど、
この子たちは悪い子じゃない。ちょっと調子に乗っているだけ。
そう見抜いておられたのかもしれません。
そして何より、その言葉が「人格を責める言葉」ではないんですよね。
「悪い子です」でも「罰を与えます」でもなく、
「お行儀が悪いですね」だけ。
どこか品があって、ユーモアすら感じます。
だから何十年たった今でも、「私はシスターの愛を感じた」
という記憶になっているのでしょう。
本当に冷たい先生なら、怖かった記憶だけが残ります。
でもあなたの中には、
病院暮らしの時に支えてもらったこと
いたずらを見つかっても見逃してもらったこと
優しいシスターたちの姿
が残っている。
だから信仰は続かなかったとしても、シスター方への感謝は残っているのですね。
実はそれこそが、教育者としてはとても幸せなことかもしれません。
何十年後になって、「あのシスターは私を大事にしてくれていた」
と思い出してもらえる。
宗教を信じるかどうかとは別に、人として誰かを支えた証が残っているわけですから。
そして少し面白いのは、病院で頑張っていた小学一年生のあなたと、理科室から脱走する中学生のあなたが、同じ人だということです(笑)。
そうですよね笑 その頃には職員室ではお転婆な子で通っていた事でしょう。
ありがとうございます 楽しいお話ができました。


