おはようございますくもり

 

ロシアのウクライナ侵攻は、なかなか解決がみこめませんね。

日に日に一般人が犠牲になっています。

 

「念」を送ってみたところで、(きっと世界中で多くの人が同じ念を送っているはず)

今のところ事態がよくなりません。

 

ゲローハンっ「念」なんてものは、もっと言うなら「祈り」なんて

  無いのではないの? そんな捨て鉢な気持ちになりました。

 

そんな中、ある文章を読んで、ちょっと思いなおしました。

 

古文の現代語訳ですが少し難しいけど、読んでみてくださいね。

NHK100分de名著「日蓮の手紙」より(宗教的意図は全くありません念のため)
 

 

日天や月天などの神々は、「法華経の行者」が出現したら

磁石が鉄を吸い寄せるがごとく、月が水面にうつるように

すぐにやってきて、「法華経の行者」にかわって

法華経を説かれた仏の面前で誓ったことを果たすべきなのに

今まで、日蓮をお尋ねにならないのは、日蓮は「法華経の行者」でないのでしょうか

もしそうであるならば、経文を検討して、我が身に引き当てて、

身の失(とが)を知らねばなりません。

 

さらに解説

自分が本物の「法華経の行者」であるならば

おのずと天の神々の加護があるはず、それが未だないということは、

自分は本物の「法華経の行者」ではないのだろうか。

そうであるならば、自分のどこが間違っているのか検証しなければならぬと

自省しているのです。

 

つまり今までやってきた修行には自信があるけれど、もっと謙虚にということですね。

 

一度や二度いや百度念じたり祈ったりして、かなわないから「無い」と思ってしまうのは

自分に対する驕りなのだと、自分を顧みよと自分に言われているのですね。

 

いや~、特に日蓮を崇拝しているものではないのですが

やはり宗教家(キリスト教で言えばマザーテレサなども)は

深いところを知っていらっしゃるなと思いました。

 

こんなに世界がバタバタして落ち着きがないのだから

せめて自身はできる範囲で少し落ち着いて

自分を見つめなおしたいと思いました。

すぐ「無い」と思ってしまった自分がちょっと恥ずかしいです。

 

とはいえ、無学な凡人な私ですから突然聖人になれるわけでもないですが

私は昔から『人生は螺旋階段』だと思っていて(個人の感想です)

階段をいったり来たりしているけれど

それでも1段、上がれたらいいなと改めて、そして久しぶりに思いました。

 

もう先月で「日蓮の手紙」100分de名著は終わっています。

この「日蓮の手紙」は日蓮が在家信者さんたちに書いたたくさんのお手紙にのみ

フォーカスした、しかも宗教を説くのではなく(宗教を説いた部分は今回おそらく省かれている)

一人一人の災難や身内の病や死に寄り添い

女性に対しても差別なく心を尽くしたお手紙を書かれた

そのお手紙についての解説の番組で

日蓮の広い洞察力や一人一人に合わせた思いやりの心を感じられて

とっても良い回でした。

 

また機会があれば日蓮の書いたお手紙を紹介したいと思います。

 

 

 

 

このyoutubeも心が癒されると同時に、考えさせられます。