なぜ、この記事を書こうと思ったかというと

#あちこちのすずさん が流行っていて、いろいろな『すずさん』のお話を読むけれど

 

やはり実際に戦争に行った方のお話ももっともっと聞くべきだろうと感じたからです。

 

ただ、私の父は戦争に行ったといっても最後の最後で

大阪で集められ、いろいろな訓練をしたあとに

大阪から鹿児島を目指して(鹿児島から特攻隊としていくべく)

しかも陸路なので時間がかかり

結局特攻隊員になる前に終戦となったのです。

 

なので敵と戦ったことはなく、父のつらい思い出は、軍での生活そのものにあったようです。

 

父は、こんな言い方をするのはどうかと思いますが、非常にラッキーでした。

 

もっと最後まで大阪にいて訓練を続けていれば、大阪大空襲に襲われていたでしょうし

 

広島も通ったでしょうに、たまたま原爆の日には当たらず

 

本当に鹿児島についてすぐ終戦を迎えたようです。

 

しかし、はっきり言ってもう戦争の局面もどうすることもできずにいて

 

食べ物も物資もないないずくしで

 

軍の上層の人達のヒステリーもひどく、部隊の雰囲気は最悪だったと言っていました。

 

上司の機嫌だけで誰かれなく殴られる毎日はプライドの高い父にはとても耐えがたかったようです。

 

この話は私がおそらく中学生のころ、学校の宿題で戦争の話を家で聞いてくるように言われて

 

何も考えず、ずけずけと父にいろいろ質問した中で聞いたものです。

 

しかし父の口がとても重く(いつもは饒舌なのに)しかめっつらで。

 

本当にわずかしか話してくれなかったので、さすがの子供の私も察して

 

それ以上聞けませんでした。

 

父は軍隊生活の話より、一つ違う話をしてくれました。

 

父は昔人間なので『朝鮮』『支那』に対して偏見のある人であることは

 

当時の普段の言動からわかっていたのですが、戦争中に一人の朝鮮人男性と知り合いになったそうです。(日本で)

 

大陸から連れてこられた人ではなく、もともと日本に住んでいた人なので普通に日本語を話していたそうです。

その人は軍の下働きをしていた人だそうで、大阪から鹿児島までずっと一緒についてきていた人だと言っていましたが、とてもいい人だったと。気が合う人だったと。

 

その人との間には友情が芽生えて、戦後しばらくはその人のお家にも遊びにいっていたと。

 

戦後すぐと言えばおそらくその朝鮮人の人は朝鮮人部落に住んでいたと思うのですが

父は気にすることなく、手に入った食材を持ってその人のお家を訪問していたそうです。

 

お礼に朝鮮の家庭料理をよばれたと言っていました。きっとその人も父のこと歓迎してくれていたのでしょう。

 

あまり人の事を気にしないのも父らしいですが。

 

偏見の強い父だったので、個人レベルではお友達もいたなんてと

 

当時の私は目を丸くしたものです。

 

父は子供の私にあまりにきつい話をするべきではないと思っていたのでしょうか。

この話だけは丁寧に話してくれました。

 

私も父の戦時中の話を思い出すときは必ずこの話を思い出します。

 

私にはものすごく怖い父でしたが、若いころには、国は違っても、同じ苦労をした気の合う友人がいて、飲み食いを共にしてして楽しんだ時期があったのだなぁと

感慨深い思いです。