私の父の出征時の記念写真です。

昔の小さい写真のサイズですが

これでも写真館で撮ってもらったそうです。

 

しかも写真立てにも入れられず、くしゃくしゃでした。

 

誰かが肌身は出さず持っていたからかもしれませんが

父は戦争の話はしたくないと言っていたので

この写真の謂れも聞けず

父の妹の叔母から聞きました。

 

#あちこちのすずさんが流行っていますが

私が戦争の話を聞けるのは今では叔母だけになってしまいました。

 

父は大正15年(昭和元年)生まれだったので

招集がかかったのは終戦の前の年だったそうです。

 

なので父の実家は町の食堂で、目の前に大きな鉄工所があり

戦争が始まる前は普通の生活はできていたけれど

戦争がはじまり、食堂なんて営業できなくなって、家族がど貧乏になった挙句の

招集だったので、写真館で写真は撮ってもらったけれど、一番小さなサイズで

ほんの数枚焼いてもらっただけだったそうです。

 

親の食堂は食品が入らなくなってつぶれて、父は鉄工所で働いて家族を支えたけれど

弟が体格は立派だったのに結核にかかってしまい。

その治療もお金がなくて中途半端にしかできずに死なしてしまったと言っていました。

 

叔母は長兄を戦争に取られ、次兄に死なれ、親も自分も無職で、疎開のあてもなく大阪市のはじっこで、何か売って生きられないか毎日うろうろしていたそうです。

 

なので大阪大空襲のこともよく覚えていると

京橋が大空襲にあった日に

空を覆う戦闘機の群れや

京橋方面の真っ赤に燃える空や

大八車で逃げ惑って大阪市の端まで逃げてくる人々を沢山みたそうです。

 

続きます。