リュウセイグン -4ページ目

リュウセイグン

なんか色々趣味について書いています。

長文多し。

なんかこのアニメで『総括』 って言うと違う意味に聞こえる不思議




最近映画も観てないのでなかなか更新してない当ブログですが、HOTDは初見時に書いたので締めも書こうと思います。とは言え……なんと言えばいいか迷うなぁコレ。
あの終わらせ方は、ほぼ予想通りだったので「ま、いいんじゃね?」って感じです。
『行けるとこまで』ってのはオリジナルを押さえてるんだろうし。
面白かったかと言えば、う~ん。


エログロ一本で攻めていくのかという気もしないではないですけれども、そのやり方だとアニメ作品として飽きがきやすい予感もします。


というのが最初の感想だったんだけど、かなりそれに近かったような。
ゾンビ物はゾンビに抗うシチュエーションのみならず、抗う人間達の中で不協和音が起きてしまったり価値観の変動が起きてしまったりする所に醍醐味があるのですね。

途中までそれを描こうとしていたようにも見えるんだけど……なんでだろうな~。

思うに一つには価値観を受け入れるまでの葛藤が比較的少なかった事、あとそういう非常時の残酷さを格好良くしすぎたことか。
それはやっぱりヒサシが死ぬの早すぎたせいな気がする。ゾンビの伝播速度って問題もあったかもしれんが、彼が中途半端な状態で生きている時間が長いほどゾンビと人間が越境的な存在なのが示されて「いつかヒサシを殺さなきゃいけないかもしれない」って不安が付きまとう。ついでに彼が足手まといになることでピンチが増える→殺した方が得策じゃね?となる。
ヒサシ処分に当然ながら麗は絶対反対だし、孝は躊躇しつつも麗との関係回復についても考えてしまうなどと言った微妙なバランスを保てる。

本編では殺したからこそ麗がヒサシを引き合いに出すことで不協和音を作ってはいたものの、生かしていた場合のが作劇に緊張感は持たせられたかって気がする。

あとメンバーが強すぎた。
ゾンビってのはしぶといけど弱い。だから普段ダメな奴でも機転を効かせて生き延びられたりする。

そこに日常ではしょうもない主人公が活躍する余地があったりする訳だが……この人たちは基本的に元からハイスペックなのでそういうことも起きなかった(もっとも『ドーン・オブ・ザ・デッド』のメンバーからしてスペック高いから低くなきゃいけない訳ではない)

毒島先輩の変化は描かれたけどアレもなぁ……元から変な人がその変さを肯定したって話で、肯定した理由も孝の為にって形だからシチュエーションはむしろ従。「終わった世界の中ではそっちのが適応出来る」みたいな形とか……まぁこの辺りは好みだろうか。ただ日常シーンを殆ど入れなかった事で「毒島先輩は孝の憧れ」とか「高城さんと孝は幼稚園からの幼馴染み」みたいな関係詳細が掴みにくかったのは確か。
面識があるとか昔から知ってはいたようだレベルなら会話から推測出来たが、要するに麗とも幼馴染みの筈なんだから、そこら辺のエピソード入れたりすると分かり易かったかね。


そんでヒロインと紫藤先生が獅子身中の虫というか、人間ドラマ的な不協和音を託される存在になり得たのだけれど、結局両者共に湿気ったまんまだったのが非常に残念。

特に紫藤な、お前どんだけ小物やねん!

お前みたいな奴はもっとジョーカーさんみたいに機転が効いてあざとくなきゃ単なるムカつく噛ませだよ!
……て、その通りだったか。


あとゾンビの設定と対処法。
音設定が都合良く無視されたり戻ってきたり
もし本当に音だけに反応だったら大抵の奴は携帯電話と目覚まし時計で誘導出来る。
一番合理的なそれを一切と言っていいほどにしないみんな。
そしてわざわざバリケードの手前で防衛戦を張るwwww(麗が動けなかったり車が大事だったにせよ、非戦闘員も居るし一旦乗り越えてから戦うべきじゃ……例えば細かい鉄条網であれば麗を引きずれない為に多少の説得力が出る。)

とまぁ、文句たらたらになってしまったので良いところを挙げよう。

作画は全体的に整っていて動くところも迫力があった。

そして何と言っても平野コータのキャラが良かった
彼が主人公でも良かったんじゃないかというくらい(そうすると話は全く違っていただろう)
銃器を扱わせたら強いが接近戦はザル、なんて設定だったら幾らでも山場作れるし時にはギャグ要因、時には狂気溢れる暴走キャラ、時にはカッコいい男の子(でもオタク)というオールマイティに使えそうな奴だった。
彼がいなけりゃ見てないかもしれんね。

あと一部にせよ、旧来ゾンビ映画の基本を押さえようって気概はあった。
これは好感が持てる。話として成功したかと聞かれると悩んでしまうけれど、兎に角アニメでは珍しいカテゴリ選択であったので、これからのアニメをジャンル的な意味で拡大する先駆けにはなってくれると嬉しいなぁ。

作品的に死んだも同じ(原作者的な意味で)
どっこいおいらは生きている!(ゾンビアニメ的な意味で)

みたいな。
イイハナシ……カナー?




これまた昨年エラく評判の良かった『マイマイ新子と千年の魔法』を観ました。
全体的に凄く良い雰囲気の作品で、教室の汚さとか、ウィスキーボンボンでキマってしまうとことか、そういう部分が素晴らしい。あと千年の都が生えてくるところもね!

だから誉めるだけのが良いような気もするんだけど、どうにもお話的には後半が引っ掛かっちゃうんですね。
タツヨシのオヤジさんが自殺しちゃうところと、ひづる先生の結婚話。
あれは納得しちゃって良いのかなぁ? と。

登場人物が納得するというのもそうなんだけど、それ以上に我々が納得してしまって良いのかという。

タツヨシは真面目な警官と言われていたオヤジさんが女と借金作って自殺しちゃう訳ですよ。
そんで敵討ちに言ったら逆に女が泣き出してヤクザに言われるまま一発ゲンコツ喰らわして叫びながら帰って、そんで反面教師としてオヤジの事を考えようとしてたみたいだけど、そこで笑えるかなぁ。自殺した日の夜に。
よしんば本人が笑えたとしても僕らもそこで「良かったね」と笑ってしまっていいもんなんだろうか。

ひづる先生も同じで、同名の金魚がひづる先生自身の暗喩みたいになってるし、最後の表情も暗いという訳では無かった。かといってそれがハッピーなのかは誰にも分からないと言う。

警官の話もひづる先生の話も『うわさ話』で伝わってきているから、本当はそこまで酷い事じゃなかったのでは……という考察も見かけました。でも推測出来る要素が少ないのにバイアス掛けて「良かったね」と完結させてしまうのも迷うんだよなァ。タツヨシだってひづる先生だってあそこで笑ったから終わりじゃなくて、もっと大変であろう人生が待ってるんだしね。

という感じのモヤモヤを抱えていたら原作の文庫版を見かけたので購入読了。
で、ちょっと分かりました。
この話、構成的な意味では映画が凄く頑張ってます。
千年の魔法にも実体を持たせたし、それぞれのエピソードを上手く加工&絡めて一つの物語に仕立て上げてる。

原作は半分回想エッセイみたいなもんで、ある意味取り留めのない話がつらつらと続いていくだけだから、これは凄く評価出来る。しかしその分色んなエピソードにテーマ性を持たせなきゃいけなくなって、それが難しかったんじゃないかと。

タツヨシの話はまさにその通り。これは原作版だと逆にちょっと怖くなる。
話の流れはほぼ一緒なのだが、タツヨシが女にゲンコツした後、帰りがけに新子が


「ネオンとか綺麗だったね、もう一回カタキウチに行こうか」(取意)


って言うんですよ(タツヨシも帰りは楽しそうだった、とも書かれている)
この辺り、無邪気という恐ろしさを感じます。
当たり前っちゃー当たり前なんですが、この話は徹頭徹尾新子の視点で描かれてるんですね。
だからタツヨシの話も、新子にとっての主観としてのみ語られ彼女の物語として消化されています。
動機こそ差はあれども他の冒険や遊びの並行として『カタキウチ』が語られている。
これはひづる先生の時も同じで、ひづる先生が可哀想なので「カタキウチに行こうか」と考えるも、結局足し算引き算の「引かれた数は何処へ行くのか」という話と繋げて「ひづる先生は保健室からは引かれるけど東京からすれば足される」と考えて自己消化される。

ひづる先生がどうこう、というよりひづる先生を通した新子の思考回路の物語として貫かれているの為に話はここで終わり。実際がどうとかは無い(思いを寄せてた男性らしい人を新子が目撃する部分はある)

これは小説の場合「そういう作品」として出来上がっているので動かしがたい部分があるのですが、それをドラマチックにしかも小説のように主観的にするのが難しい中を再構成したからかなり困難になってしまったものと思われます。

あとお爺さんの結構困った部分が見え隠れしていたのも印象的でした。
地主だったのに自分のやりたいことやって農地解放で土地持ってかれたけど、元小作人が田んぼ潰して店だそうとすると難しい顔をする……とかね。まぁこれは自分の苦い教訓から、とも読めますけど。
アニメじゃ厳めしいけどいい人っぽかったから、それも意外だったなぁ。

こうやってみると、話としてはアニメ版のが頑張っているのですが、原作のがつらつらと書いている分「まぁ実際こんな感じだったろうからツッコむのも野暮かね」という印象になってしまう。
ちょっとアニメは可哀想かもしれない。

でも自然描写とか昭和三十年代の生活感、子供の妙にハイで生き生きした感じ、そして子供の持つ世界観とかはとても気持ちがいいのでそういう意味では評価に値します。
あと一番凄いと思ったのは千年前に於けるナギコちゃんの追儺 !!!
方相氏の人形取りだした時なんか「おぉっ」って言っちゃったよ!
やっぱこういうのをちゃんとやってくれると物語の深みがグッと増す感じがして好きだ。
終盤は個人的にやっぱり引っ掛かっちゃうと思うけど、良いところも沢山ありましたね。
頭の中で大冒険


ノーランらしい外連味溢れる超大作


『インセプション』はなかなか面白いのですが、同時にややこしい作品でもあります。
それは物語の構造が入り組んでいて、人間関係も(一部)入り組んでいて、設定が色々あって、そこら辺が結構台詞で説明されていたりするからなんですね。パンフとか読みながら考えていけば案外分かり易いんですが、作品一回観るだけだと理解するのは骨かもしれません。

主題は比較的よくある「胡蝶の夢」テーマ。
ただ、ノ-ランが面白いのは普通は「夢か現実か」という二択である問題を入れ子構造にしてしまったこと。
二択なのは変わらないっちゃ変わらないんだけど、それが物語的なギミックとして働いているところはさすが。

ノーランの学生時代の作品に『DOODLEBUG』 ってのがあるんですが、それを思い出しました。
(わたなべりんたろうさんも同じ事言ってて少し嬉しい)

映画を観ながら、この多層構造を分かり易くする為にレイヤーと名付けることにしました。
現実世界がレイヤー0、夢の世界がレイヤー1、夢の中の夢がレイヤー2、夢の中の夢の中の夢がレイヤー3……という感じ。
ちなみに山本弘さんの『アイの物語』を参考にしていますw

多層構造が映画を盛り上げるギミックとして働いているのはおもに二つ。
零に近い上位レイヤーの「夢を見ている主体」の状態変化がそのまま夢そのものに影響を与える事。
だからレイヤー1の夢を見ている人の体が傾くと、レイヤー2では重量が変化するwww
考えようによっては結構マヌケなんだけど、こういう発想大好きなんですよね。

もう一つのキモがレイヤー0の5分がレイヤー1の一時間に該当するというもの。
同じ比率で上がっていくかは覚えていないけど、どんどん早くなっていくことは確かです。

この二つで上位下位レイヤーを連結させてただの舞台設定で終わらせていない。

あと「キック」ってのを難しく考えすぎてたんだけど、どうやら単純に夢から元に戻る(上位レイヤーに帰還する)キッカケ全般でよかったみたいだ。

話としては犯罪モノに近いのかな。
名うてのプロを集めて完全犯罪をしてやるぞ、という。
ただメッチャトラブル多いwww
しかもその原因の大半は主人公・コブ(ディカプリオ)のせいというwwww
コイツ居ない方が上手くいくんちゃうか……という訳でもないのがツボを押さえた作りです。

覚醒できないときに落ちる「虚無」って設定も今ひとつ理解しかねたが、どうやらレイヤー4(夢の中の夢の中の夢の中の夢)の事だと考えて良いみたい。
これを縦横無尽に生かした壮大な犯罪計画(でも実際は一人の人間にアイディアを植え付けるだけ)って対比も良い。

これまた終盤でノーランぽい価値転換場面があったり、最後も気になる終わり方(まぁ予想は出来ましたが)で、アクションの面白さ、世界観の独特さ、ヴィジュアルのヘンテコさと、色々楽しみどころが多い映画です。
また話が分かり難いので、見返すことで再発見も出来そう。

テーマやラストはちょいと普通っぽいけど、監督の個性と相まって良作になっているかと思います。
ブラック★ロックシューター(の曲は)
何処へ行ったの?





AB関連で「麻枝はPV脚本家、整合性はないけど歌とはあってる!」みたいな記事があって


PVなんかにわざわざ脚本用意しなきゃいけない時点でダメじゃん
PVはあくまで宣伝用、一般では「売れる曲」ですらその曲自体の訴求力で敷衍してる。わざわざPV脚本家なんて必要としていない。
PVに12話×25分のアニメ作るのはコスト的にも悪手でしかない
PVドラマだからってその物語自体が破綻していいことにはならない
結局整合性のある話作れない奴を弁護する言い訳じゃね?


って思った私でも、この論の妥当性を考えざるを得ないくらいの出来でした。
だってPVとしての役割すら果たしてないってどういうこと?
いやまぁフィギュアPVという意味なら一応果たしてる……とも言いにくい出来映え。

まず構成が謎。
冒頭はB★RSが戦うパート(Bパートとする)から始まる。
これはいい。レイアウト云々は分からないけど作画はよく動いている。
ところがすぐに女の子の日常パート(Aパートとする)に。これだけだったら悪いとは言えない。
やっぱり作画はいいしね。

でも、それがBA・BA・BA・BA……と交互に流れる
数分おきにだ。
Bパートはぶつ切りになるし、Aパートはとても淡々と描かれているのでその落差が激しい。
これがまだ対比的な描かれ方だったらいいのだけれどあんまりそういう感じも無くて
ウンザリする。
更に問題なのがAパートでは、もう何っにも話が繋がらないってことだ。
冒頭でも経緯こそ不明にせよある程度予測出来るし、中盤で明確に分かるがAパートで仲良くしている子たちがBパートで戦う羽目になっている。つまり時系列的にはA→Bであることがおおよそ分かる。

ということはA世界とB世界は何処かで交わるはずだし、戦う理由も何処かで生じるはずだ。

ところがぎっちょん、進めども進めども二つの世界は一切交わらない!
おいおいおいおい、何の為の尺だよ!

異世界転送物(主人公が異世界へ行ってしまう作品)なんだからその文脈をしっかりしろよ!
別に何から何まで説明しろといってる訳ではない。
ただ我々の住む一般世界(本作のA世界)とファンタジー世界(B世界)は全くの別物、水と油だ。

だから異世界転送物では冒頭で一気にファンタジー化させてしまう(『ふしぎの国のアリス』など)か、段々と異世界の要素が混じり合わせる(『ブレイブ・ストーリー』(原作)が分かり易いか。旧ドラえもんの劇場版も結構こっちの要素を持つと思う)ことで両者を融合させる。
こうすることでフィクションレベルのギアを入れ替えているのだ。
でもこれはAとBを並行して描くだけで一向に繋がらない。
主人公の友人(Bでの敵)が一瞬黒い影を纏ったように見えるシーンくらいだ。
戦闘シーンの取り入れをも考慮するならば、本来こういう話では、

Bでの戦い→敵が逃げる→Aの日常→AにBの影響→友情の決裂→B★RSと敵の行動が主人公達と接点を産む→融合して戦うことに→対決→勝利→友情の回復
(決裂と接点辺りは置換した方がいい場合もあるだろう)

という構造を取るのが妥当だと言える。
もちろん「絶対こうでなくてはならない」訳ではないのだが、変わった趣向をこらすと逆に物語性をダメにしてしまう場合が往々にしてある。正直この作品は構造の時点でそれに近いと思う。


ではAパートで何を描いているかといえば主人公と友人のドラマなのだが、これが問題その2。
主人公「マト」と友人「ヨミ」の友情を描くのはいい。
だがそれ以上に重要なのは決裂だろう、Bでは戦ってるんだから。
誤解であれ擦れ違いであれ、観客が「あぁこれは戦う流れになっちゃうな」と思わせる状況が必要だ。
ところがそれを用意しない。

おいおいおいおい、意味ねーだろそれじゃ!


確かにマトとヨミは二年生になってクラスが変わり、更にマトの近くには所属してるバスケ部のマネージャーがくっつくようになって、バレー部でクラスも違うヨミは壁を感じ始める。ここまでは問題ない。
そんな矢先、いつもの待ち合わせ場所にヨミが居ない。「用があると言って帰った」とのこと。
それきりヨミは行方不明になる。

え…………なんで?

ここはサッパリ分からない。いや、設定的には何となく分かる。
恐らく敵(デッド・マスター=DMとかいう奴)暗黒面みたいな部分を乗っ取られ、B世界へ行ったんだろうと。
でもこの時点で別にマトとヨミは喧嘩した訳じゃない。亀裂は出来たが決裂はしていない
なんとなーく微妙な雰囲気のままにヨミは消えてしまうのだ。
で、ヨミがいなくなったんでマトはヨミを探しているうちに、光に包まれてB★RSと会って本編終わり。
Bパートはこれより前の時点で、ヨミに憑いたと思しきDMを排除して終わっている。

Aパートは少女の心理を丁寧に描いている……という意味では僕もそれほど否定はしない
けれど、このAパートが必要だったかと言えば疑問だ。
なぜならば、ヨミの孤独はB★RSとDMが戦う間接原因でしか無いし、マトとヨミが戦う理由にもならない

ヨミが戦わされているのはDMが取り憑いたからという一点でしかないのだ(友情の亀裂はDMが取り憑くキッカケにしかなってない)よってDMを払えばそれで終わっちゃうので、マトとヨミの長~いドラマは全然生かされてない。ヨミの自意識に関わる描写は、せいぜい最後の最後で後ずさるってくらい。
そりゃそうだ、ヨミに積極的に拒否するほどの動機ないもんな。

これが誤解による決裂なんかをちゃんと描いた上で、

拒絶し攻撃するヨミ、敢えて耐えながらも進むマト→無理矢理抱きしめ→DM浄化

ならまだAパートが生かされたと言えるんだけどなぁ。
Bパート台詞無しってのも声以外に意味無い
んだから拘ることなんざ無かったろうに。
非常に残念で尺ばかり喰う死にドラマを描いた作品。
うん、やっぱPVとしてすら評価出来ないわ。

そして一番のツッコミどころはEDにやってくる。

は……?


『BLACK★ROCK SHOOTER』使わないの?


いくらB★RSがオリジナルキャラで本来ミクとは無関係だったとしても、あの曲でキャラが知れ渡ったのは確かだろう。俺なんて曲が先なのかキャラが先なのかすら知らなかった。
つーかB★RSが本来的に何を指すのかすら知らなかった。ただ曲だけは一応知っていた。

よほどのファンで無い限り状況は似たり寄ったりだと思う。
なのにあの曲を使わないという神経がよく分からん
ryoに作曲を頼んでるみたいだし、劇中インストでちょっと流れるし使えない訳ではないと思うんだけど……。

やっぱりPVとして機能してないよな、色んな意味で。
むしろファンのが怒るんじゃねーの?

しかも余計なCパートまでくっついてる。
ヨミがマトに固執するのは分かる、一番の親友になってたんだろうしヨミは内気っぽいし。
でも一年間他の人間と過ごしてきたはずのマネージャーがマトとヨミに嫉妬するってどういうことなの?

お前、他に友達居ないの? 

それとも恋愛レベルにまで行ってるって事なのかなぁ。
皮肉気に描きたいのか分からんが、逆にこれはバカっぽく見えるぞ。



補足
チェックしてみると、冒頭戦ってる相手とヨミ=DMは違うみたいだ。
は? じゃあアイツ誰だよ? 勘違いしてた俺も悪いけど、本筋に全然関係ない要素大杉だわ。

続編の為? 続編作るつもりでいる方が驚愕だよ!

谷川だけに。
名作の前に、我々はただ黙して座るのみ



とまぁ分別くさい事を言いましたが勿論語ります。

『トイ・ストーリー3』

もうね、確か去年辺りに設定聞いた時から「これは来るな」という感じでした。
当初シリーズ自体も嫌いじゃなかったんですけど、正直今更みたいな気持ちもあったんです。
設定聞くまではね。

「アンディが大人になってしまう」

もうコレですよ! コレ聞いただけで

「この作品は傑作のニオイがプンプンするぜぇ~~~ッ!!!!」

って感じですよ。
こういう作品って、「終わらない時間」を描こうと思えば出来るんですよね。
それを敢えて終わらせてきた! もうその時点で期待度MAXになってました。

そして正しく傑作というべきでした。
いつもながらピクサーはギミックの使い方が非常に優れている(この辺りのセンスは短編作品を観ると凄く分かる)ので、そういう盤石さもあるんですが、今回はやっぱりテーマがねぇ……。

冒頭の楽しいシーンと、直後の現在と、そして悲しい誤解と。
この時点で結構来る物がありましたね、はい。

中盤はシリアスながらもいつものノリ。
でも全体的に笑い入れながらも重いし、おもちゃだから笑ってみられるだけで、かなり残酷な部分も多い。

ロッツォやビッグベビーの過去も、単に捨てられたって見方だけじゃなくて、愛する人から「必要とされなかった人」「代わりが効く人」とされることで、自身の存在意義が無くなってしまう体験です。
これは何もおもちゃだけの話じゃなくて、人間にしてみても凄く悲しくて共感出来る部分。
多分ロッツォの場合は、本当のところ女の子が無くしちゃったのを酷く悲しんでたから代わりを買って貰えたってだけで、戻ってきたらきたで喜んで貰えた気がするんですけどね。
やっぱり新しいけど同じ商品って、持ち主にしてみたって何処か違うもんですから。

で、ここからはロッツォに結構厳しい話になったりもする。

ウッディが「代わりが居たのはお前だけだ」と突き放されて、ビッグベビーは反逆する。
『カールじいさん』の敵役も可哀想な人で、EDに救済措置入れてあげれば良かったんじゃないか……って書いて、『トイ・ストーリー3』のロッツォも似た傾向にはあるんですけど、でもロッツォの場合は仕方なかったかな。

ロッツォは結局自分から持ち主の愛情を否定してしまい、その結果ビッグベビーの怒りを買う。
また、一度はウッディに助けられて、今度は自分がみんなを助ける番になっても、裏切ってしまう
悲しい過去があるのは仕方ない。でも、だからって今の悪行の言い訳にはならない
ウッディなんかは「あんな奴、追い掛ける価値もない」みたいな事を言います。
そういうちょっと毅然とした部分があったのも面白かったかなぁ。

ロッツォにしても死んじゃうとかじゃないですしね。
ある意味愛されてるし、仲間も居るwww

そして一番のキモは終盤ですね!

ここまでで

「泣けるって意味では序盤の悲しさのが強かったかなぁ、溶鉱炉のシーンも誰が助けてくれるか読めたからなぁ」


なんて思っていた俺もありました……

アンディ!

今回の裏主役はアンディですよ!!!

冒頭で親におもちゃを「ガラクタだよ」と言ったアンディ。
実は強がりだったことが、屋根裏にしまおうとする行動から見え隠れしています。
でもみんな帰ってきたとして遊んで貰えない事には変わりないし、結局どうするのか。

ここでもウッディが漢を魅せる!

ウッディのメモを見たことで、ボニーに譲る事を決意したアンディ。

ボニーに対して、おもちゃを一つ一つ取り出しながら物語るシーンが冒頭の想い出を思い起こさせます。

アンディの中に、やっぱり彼らは残ってるんですね。
や、ヤバイ……ちょっと来るわコレ……
そう思っているうちに、

大切にするって約束してくれるかな?
僕の……宝物なんだ


ちくしょう……きた、キタコレ!! 冒頭との対比!
狡い、この台詞は狡いぞ!!!


はい、ここで一度負けました。3Dメガネに涙が溜まるわ……。

そして直後にはもっと大きいのが一発。

箱の底にはウッディが居た

ウッディだけは引っ越し先に持っていくつもりだったのに、何故……
前のシーンでのカメラワークも、まるでウッディが引っ越し先に行くことを匂わせる使い方(段ボールの取っ手口から見ているような構図がある)をしていて、引っ掛けになっています。この時点では「ひょっとしたら引っ越しの荷物に隠れようとして遅れたのかな?」と思えなくもない。

でも、ウッディを見詰めたあと、アンディはボニーに言います。

ウッディは賢くて、優しくて、勇敢で…………

でも、彼の一番凄いのはね



決して仲間を見捨てないことなんだ



ア、アカン、もう駄目や……もう駄目やーーーっ!!!!!


これが泣かずにいられるかぁ!

3Dメガネなんだか水中ゴーグルなんだかわからんようになってもうた……

つーか、今書きながらでも思い出し泣きが出来るよ俺!!!

今まで迷いつつもずっと仲間を大切にして、救ってきたウッディ。
今回も保育園からみんなを助けた。でも、それだけじゃない。

自分一人だけがアンディについていって、仲間を置き去りにすること自体が出来なかった。
そして、アンディはウッディ自身が意志を持って勝手に動くことなんて知らないのに、彼自身との会話はいつも一方通行だった筈なのに、それでもウッディの全てを知っていた

空想の中が現実と繋がっていた

もうホント今まで書いて、まだまだ魅力は沢山あるけど、このシーン、この台詞がある限りこれ以上は余計な気がする。

素晴らしい。

ただそれだけ。