リュウセイグン -3ページ目

リュウセイグン

なんか色々趣味について書いています。

長文多し。

アスのヒーローは君だ!

キック・アス Blu-ray(特典DVD付2枚組)/アーロン・ジョンソン,クロエ・グレース・モレッツ,クリストファー・ミンツ=プラッセ
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去年末から年始にかけて、話題を攫った異色のヒーロー映画『キックアス』
ボンクラオタク高校生がネット通販の全身タイツを着てヒーローになる、というしょうもない設定でありながらそれを十全に生かした傑作でした。

とは言え、この映画で注目されがちなのはキックアス自身よりもクロエ・グレース・モレッツ演じるヒットガール(本名ミンディ・マクレイディ)。

11歳の完全ロリ


にも関わらず女性器を示すC言語を堂々と使い、ヒートナギナタみたいな武器で悪人どもを滅多切り!

大人顔負けなビッチで小生意気な面と同時に子供らしさを仄かに感じさせる辺りも素晴らしいキャラクターで、この映画の話題の半分以上を彼女が担っていたと言っても過言ではない。

ニコラス・ケイジ演じるオヤジのビッグダディ(デイモン・マクレディ)も、ニコラスの間抜け面が逆に狂気を帯びて見えるという凄い親和性を産み出しました。特に初登場シーンと、それに続くボウリング場のシーンだけでも笑える。

愛娘に拳銃のダメージを実感させる為に普通に撃つ、そして誕生日プレゼントに犬やぬいぐるみを欲しがる娘へ


え? なに欲しがってるのこの子……


と彼氏を紹介されたみたいなリアクション芸も、


「うそうそ、バタフライナイフが欲しいわ!」


と訂正した時の


ほ~っ、お前どうかしちゃったのかと思ったよ☆


という心底安堵した表情もステキ。


彼らは顔を隠して活動するちゃんとした動機もあって、少なくともヒーロー的な設定とキャラ立ちという意味に於いてはキックアス自身よりもずっとこっちのが強い。


でも、『キック・アス』はやっぱりキックアスが主人公の映画なんですよ!


最初に言ったようにキックアス(本名デイヴ・リズースキー)は本来平凡(よりちょっとダメ)なティーンエイジャー。
学校では目立たないし取り立てて何が出来る訳でもない。
ただコミックが好きでヒーローに憧れてるというだけの男の子だ。
ただちょっと違うのは、普通なら憧れだけで終わるヒーローに本気でなろうとしちゃうってこと。


『なぜ誰もやらないんだ?』



これが、デイヴの抱く根元的な問い。
すなわちこういう事だ、ヒーローとはなにか?
強い力を持った者か? 違う、力のあるなしは悪人も善人も同じ。
ヒーローとヴィランの違いは何か。

それは正しき行動だ、その行動を支える精神だ。

じゃあ、誰がやったっていいじゃないか。
この世にはヒーローを扱った作品が溢れてる、じゃあ本当にやる奴がいたっていいじゃないか。


『なぜ誰もやらないんだ?』


そう、僕がやったっていいよな。
ネット通販で全身タイツを購入し、バトンを装備して特訓を始める。
もちろん、この特訓だって小中学生がやるような「なんちゃって特訓」だから大した効果はない。
ところがチンピラの悪事を止めようとしたからナイフで刺され、その上車に跳ね飛ばされたお陰で金属板だらけのちょっと頑丈な体と、末端神経麻痺によるこらえ性が身に付く。(ついでにヒーローコスプレを黙ってくれと救急隊員に頼んだら「全裸で倒れてた」という話になってゲイ疑惑になるというおまけ付き)


ここら辺のアホな設定がまた神懸かってるwww


そしてまたチンピラに襲われている人間を助けるデイヴ。
もちろん知人でも何でもない。
けれど


お前らの暴力をみんな黙って見てる、
それが許せないんだ!



正直、このシーンは凄くグッと来る訳ですよ。
彼はヒーローへの一歩を踏みだした、それがこの言葉であり、作品のテーマ、いやヒーロー物というジャンルそのもののテーマでもある。

正義とは何か?

そんなに難しい事じゃない。

悪事を、困っている人を見過ごさないこと

でも、それをちゃんとやれる人間はほとんど居ない。
せめて僕はそれをやってみせる!
間抜けなカッコだけど、いや姿が間抜けだからこそ、このシーンはガチでカッコいい。
それをギャラリーが動画で撮影して、名前を問う。


キックアス!



それで知名度は上がっちゃう訳だけど、彼の実力自体がしょうもないってのは変わらない。
実力で言えばヒットガール&ビッグダディの方がずっと凄い。
デイヴはあまりの格差、そして他にも色々な要素が絡んでヒーローを断念する。
でも結局、ヒーローに立ち戻る決意をする。
ここが本作のまた名シーンで名台詞。



“力がなければ責任は伴わない”か?
いや、それは違う



これは『スパイダーマン』

「大きな力には大きな責任が伴う」

という言葉の対偶だ。
スパイダーマンもボンクラな青少年で、途中から凄い力を手に入れる。
だからこの言葉が義務として通用する。



僕には力がない。でも、力がないって逃げていいのか?




そう、ヒーローとは力に依るのではなく精神に依るのだ。
だから、弱い僕らだってヒーロー足り得る。

この映画は凄い力を持っていたり、特殊な才能がある奴らの為の映画じゃない。

気弱で大人しくてバカにされがちで、でもヒーローに憧れる気持ちを忘れない奴らへの映画なのだ。


あいつらの映画じゃなく、僕らの映画


だからこそ、主人公はヒットガールじゃなくてキックアス=デイヴ・リズースキーなのだ。

またヒーローという存在の性質を考える時、実はキックアスが最も純粋にヒーロー性を体現していることが分かる。ビッグダディの目的は、自分を陥れ結果的に妻を死なせたフランク・ダミーゴに復讐すること。

ヒーローとは基本的に利他的な存在だ。
しかし、復讐は違う。
復讐は自分の為のもの。

復讐者はヒーローではない

パニッシャーやバットマンなどは、確かに復讐が動機として生まれたヒーローだ。
けれどその「復讐」対象は悪人という抽象化がなされる。
つまり「アイツを退治する」のではなく「悪人を退治する」という状態に移行するのだ。
自分の為だけではなく、「自分のような理不尽が起きないように」という公共性が生じている。
またそうであってもアンチヒーローやダークヒーローなどと、やや通常のヒーローとは異なる区分けをされる場合も多い。

ビッグダディは復讐が動機だし、どうもフランクから奪ったヤクを売り裁いてるようである。
つまり利己主義者であり、少なくとも正統派なヒーローではない。

一方でキックアスは悪を見過ごさない=困った人間を助けるというヒーロー的理念が先行して誕生した存在であるから、そのヒーロー性はある意味とても純粋で真っ直ぐなものだ。
で、ヒットガールはと言えば、当初は父親に半洗脳のような形で復讐を刷り込まれていた訳だが、途中で「死を無駄にしたくない」という動機を語る。

復讐の要素が入っているにはいるが、同時に肉親であっても「他者の為に」という部分が生じてきている。
それはまた、キックアスが最終的に本当のヒーローになるのを後押しするのだ。

こういう部分に注目すると、メタヒーロー物、パロディヒーローのようでいてその中心にはしっかりとした骨太なヒーロー観が貫かれているのが分かる。

キックアスは弱くてショボい。
それ故に、誰よりもヒーローらしい。
そしてきっと、彼と同じく誰しもがヒーローになれる
美しく、儚く、ちょっと笑えるヴァンパイア・ラブストーリー



完全ネタバレ



ツイッターやってるせいか、書くことを小出しにしてしまってはや数ヶ月。久しぶりに書き始めたいと思います。
邦題に関しては、観てからだと色々と分からなくは無いのですが、すっごく無粋な印象を受けるので原題で通します。
最初この邦題知った時、同じ映画だと思えなかったもんなぁ。

かねてより噂になっていたこの作品、やはり特筆すべきは映画全体に流れる透明感・儚げな印象
美しいんだけれども、どこか脆く閉塞感に溢れている。これは風景もそうだし、登場人物にも全体的に言えること。

少年オスカーの繊細さと脆弱さ、ヴァンパイアであるエリの一見無垢そうでいながら何処か怪しい雰囲気も上手く表現されている。
少年と異形の者、けれども正統派ボーイ・ミーツ・ガールの流れを汲む物語なんだけれども、そういう微妙な関係性が登場人物の立ち位置や触れ合い方、また原作タイトルである「モールス」の使い方などで上手く表現されてる。

映像中心なので僕なんかはウッカリしている所もあって、例えば別居しているオスカーと父親のシーンは「何か変な雰囲気だな」とオスカーが疎外感を持っているのは分かったけど、お酒のせいとか友人と仲がいいからかとかそういう風に捉えていた。
しかしながら他のブログ回ると

「父親はゲイみたい」

と指摘されてる方多数。
なるほど、子供産んでるってのが頭にあったからその発想は無かったわ。
一応原作では酒癖の悪さが問題だったらしく、映画中でもコップに視線が行ってる場面があった(と思う)ので、色々解釈出来るようにはなっているんだろう。

あと記事を書くに当たって調べていたらビックリしたのが
「エリぼかし問題」
エリの下半身にモザイクが掛かっているシーンがあったのだけれど、どうやら原作に依れば

エリは去勢された男の子

だったらしい。だからこのモザイクは女性器を隠しているのではなく、男性器が去勢された後を映しているようだ。けれどもモザイクのせいで普通のロリ規制シーンに見える由。

「私、女の子じゃないの」

って台詞は、ヴァンパイアだからだと思ってたよ!
まぁこの時点でオスカーはヴァンパイアって知ってるから、その文脈だと確かに余計な台詞になってしまう。

ともあれ、少年少女(仮)の細やかで危うい関係性を上手く描いていてとっても素敵な作品です。



と、ここら辺までは他の映画ブロガー諸氏の皆さんも書かれていらっしゃると思うので、あとは個人的に面白かったところを書いていくよ!



オスカーの厨二っぷり

これが凄い。
どのくらい凄いかって言うと

夜に住んでる団地の側にある木を
ナイフでぶっ刺しながら
「このブタ野郎!!」
って叫ぶ

くらい厨二。
しかもエリとのファーストコンタクトが、その場面を見られて

「何してるの?」

って尋ねられるって言うね。
もう穴持たずでもすぐさま地面掘って越冬するレベル
こんな悲しい出会いは日本のアニメでもあまりお見受けしない。

しかもオスカー、趣味は殺人事件スクラップ集め

痛い! 痛い痛い!

気持ちは分かるよ、俺も新潮45の犯罪物とか読んでるから!
でもそんなん眺めながらニヤニヤされると、観てるこっちもいたたまれないよ!
エリと仲良くなったあとも、その厨二成分はエスカレートするばかり。

『血の儀式』


とか言ってナイフで自分の掌を切り、エリの血液と混ぜ合わせようとする。

餓えたヴァンパイアに血とか見せちゃらめぇぇぇっ!


エリは諸事情で血を吸うの我慢していたんだけれど、コレでヴァンパイアとばれました。
もっともオスカーを襲った訳ではなく、落ちた血液を舐め取る程度だったんですけど。

そんなオスカー君ですが、彼が厨二化するのも無理はないんですね。

母親は不理解(あまり顔の見えるシーンが無い)父親はオスカーより友達優先、学校では虐められている(ブタ、というのはオスカー自身の渾名)

彼もまた普通には他の人間と相容れない、エリと相似の存在である事が描かれている。
そんな二人は互いに惹かれていく。
モールス信号のやり取りなどが顕著だが、この二人の触れ合いは何かを差し挟んでいたり、面と向かって何かをするのが多い。これはお互いが近しくも異なった存在であることの暗示。
だからこそ二人が寄り添う姿は和むと同時に、何処か脆い香りがする。



ドジッ子ホーカン

そしてもう一人注目したいのがエリの保護者であるホーカン。
初めはどうみてもエリのパパなんだけれど、段々とエリとホーカンの関係性の異様さが見え隠れしてきます。
そしてこのホーカンさん、もんのすごいドジ
基本的にエリの血液を採ってくる=人を殺してくるのはホーカンさんの役目なんだけど、そのやり方が凄い。

並木道の真ん中で催涙ガス使って襲う

しかも、そのちょっと脇辺りに人吊し上げて首切り

牛じゃないんですから……って、そんなんでよくバレないなぁ、と感心してたら

速効バレました。

ワンちゃんが走ってきて、飼い主も追い掛けてきて、めっちゃバレました。
逃げました。
死体は吊したまま。

しかも慌ててたので血液タンク忘れました。


エリ激怒


そりゃ怒るわって感じですが、彼女の為に頑張ったホーカンさんもちょっと可哀想。
そしてエリは食欲に負けて人を襲ってしまいます。

死体処理はもちろんホーカンさんの役目。

流石にホーカンさんもご立腹ですが、それでもエリの後片付けをするホーカンさんマジ人格者。


引きずって近くの湖にドーン……って、それでいいの!?


なんか連続殺人鬼の割にはえらくアバウトなホーカンさん
次の獲物は高校生だ!
この時、エリがオスカーに近付いていることを知ったホーカンさんは

「今夜は彼と会わないでくれ」

とエリに頼み込む。健気ですな。
そして、もし捕まりそうになったらコレを使う、と言って薬剤の入ったビン(塩酸らしい)を取り出します。
顔を焼いて身元を誤魔化す覚悟。ホーカン、漢です。


更衣室で一人になった高校生を襲うホーカンさん!
相手の動きを封じると、吊し上げ……って更衣室の中かよ!

危ないよ!


案の定、先に着替えて待っていた高校生の友達が異変に気付く!
吊してた子も目覚めて叫び出す!
しかも予め蓋を開けてた薬剤ビンを慌ててひっくり返しちゃう!

もう駄目や……とばかりにシャワー室で半分くらいになった塩酸を被るホーカンさん。

最後は担ぎ込まれた病院
で、エリに血液を提供して転落死。



君は忠実な人間であったが、君のドジッ子属性がいけないのだよ



よくよく見ると、ホーカンさんはエリにマジ惚れしていたように見えます(原作では設定違うらしい)
特に「オスカーに会わないでくれ」と懇願する場面や最後の場面ですね。
ところがエリも感謝はしているものの、どこか見下されているような印象を受けます。
受け答えが面倒そうだったりとかね。

倦怠期? みたいな。

そういう部分を観ていくと、ラストシーンであるオスカーとエリの微笑ましいやり取りも、やや皮肉で不穏な予感を漂わせてしまうのですね。


エリ、それで何人目?



他にも普通に美しいシーンや面白いシーンも沢山あるのですが、この映画に関しては特に「百聞は一見に如かず」な部分が多いです。
ヴァンパイア物好きな人、北欧の景色が好きな人、少年少女の恋物語が好きな人は観て損はしないかと思います。
久しぶりの記事ですね。
秋アニメは良い感じな作品が結構あって順当なんですが、順当すぎてあんまり語る事もないっていうのと、映画にしても最近全然観れてないのであんま書いてなかった訳です。





そんな優良ながらも地味な秋アニメに殴り込みをかけてきたのが

『探偵オペラ ミルキィホームズ』

です。去年で言えば『ミラクル☆トレイン』の位置で、それよりも更にキている感じの



素晴らしい糞アニメです


まず『探偵オペラ』というジャンルがよく分かりません。
オペラ? 歌うの?
ところが脚本家の談 によると


ちなみにスター・ウォーズはスペースオペラっていわれるけど、歌ったりしませんよね。
探偵オペラのオペラもたぶん、そんな感じです、たぶん!



とのこと。スペオペの由来については、元々昼ドラみたいな適当な作りのドラマがあり、石鹸会社の提供だったりしたのでそれがソープオペラと呼ばれており、更に安っぽい西部劇がホースオペラと呼ばれ、その宇宙版みたいなのだからスペースオペラだよね! という蔑称から由来していると言われています。
結局歌わないんですが、今探してみたらラテン語由来で『創作・作品』の意味みたいですね。
しかしミルキィホームズについてはゲーム版の主人公で彼女たちの師匠が小林オペラという名前らしいので、それが由来かもしれません。
正直その名前もどうなんだという感じはしますし、少なくともシリーズ構成すら何の『オペラ』か理解していないのは確実です。

で、話の概要としては。



シャーロック・エリンフォード
譲崎ネロ
エルキュール・バートン
コーデリア・グラウカ



の四人が色々な事件を解決するというアニメ……では全くありません
多分ゲームの方はそんな感じなんでしょうが、アニメは違います。

このアニメは、優秀だった彼女たちが如何に人間のクズであるかがこれでもかと言うほど描かれた作品です。彼女たちの世界にはトイズという超能力があり、彼女らはその力を使って探偵学園でも一目置かれる存在でした。
が、アニメの第1話開始五分くらいで理由もよく分からないままトイズが消えます
劇中では一回使っただけ。雷に撃たれて消えたらしいのですが、何故そうなったかは誰にも分からない。
そんな訳で、彼女たちは身一つで生きていかなければならなくなりました。
ここらだとまだスポ根ものっぽい展開として考えられなくはないのですが、

ところがどっこい

この作品ではミルキィホームズがどのくらいクズであるかという描写になってきます。
どうやら彼女たちは今まで能力に頼り切って全員個室(扉の位置が不自然)・食事も超豪華・授業単位も免除(学校の意味ねー!)といった様々な特権を欲しいままにしてきた事が明らかになります。
そんな状況ですから能力が消えたとたんダメ人間ぶりを発揮するのです。

そんなミルキィホームズを見かねて怪盗アルセーヌの世を忍ぶ仮の姿で探偵学園の生徒会長であるアンリエット・ミステールはある計画を立てます。

怪盗チームは四人しか居ないのに怪盗帝国とか名乗っちゃうお茶目さこそあれ、露出狂でナルシストで乳首が常時立ってる一人を除きミルキィホームズよりも遙かに常識人です。


部下三人はアンリエットの意図を「ミルキィホームズを苦しめる為」と考えます。
ただ文脈を読むとアンリエットとしてはミルキィホームズにライバルで居て欲しいのだと推察されます。


しかし生徒会長もまた大探偵時代の人間でした。
彼女がやったのはトイズのデモンストレーションでミルキィホームズの大切な写真を強化ケースの中に入れて爆破しようとします。彼女たちの念動力・機械操作・五感強化・怪力の中でどれか一つを発動出来れば合格。

ところがミルキィホームズ達は他のメンバーを貶める程の自己顕示欲を見せる割にちっともトイズを発動させられず写真は見事に爆破されます

普通こういう時は爆弾がダミーだったりするんですが、大探偵時代の探偵学園の生徒会長は容赦ありません。

退学通告(何故生徒会長がそんな事出来るのかは不明)を突きつける生徒会長。
ただしミルキィホームズ達が三ヶ月でトイズを取り戻せば残留という条件を出します。

「生徒会長、ありがとうございます!」


と、さっき想い出の写真を爆破した奴に感謝するミルキィホームズ
この後、待遇が露骨に悪化したので失敗の原因を仲間になすり付ける辺りに人間性が伺えます。



二話では更に仲間割れします。
コーデリアさんは金髪にピンク色の花が散りばめられているちょっと変わったキャラデザなので、見ていて「こういう設定なのかなぁ」と思っていたら

「あんたの髪についている花びら何!? あんたの頭がお花畑ってこと!?

と容赦ない弾劾を受けます。

同じJC作品で似たようなキャラ がいましたが、あの四人組は幾らギスギスしていても、その話題には触れず、ましてや悪口には決してしませんでした。
その禁忌を破って2話目にして堂々と罵倒する。

ミルキィホームズのクズっぷりが垣間見えようというものです。

しかもコーデリアさんの頭脳は本当にお花畑で常に現実逃避していることが明らかになります。
食事のグレードがじゃがいも一個と、壊血病になりそうなレベルに落ち、ミルキィホームズ内の関係も悪化。
それを悲しんで80年代の少女マンガみたいなハート口を作りながら思い描くはミルキィホームズの仲睦まじい姿……少しでもうまい棒のカスを吸い込もうとしている醜い現実との乖離に涙を誘います。

カマボコと名付けた猫のお陰で一応ながら和を取り戻したミルキィホームズ。
このカマボコがまた驚くほどぶっさいくで少しも可愛くありません。
ついでにカマボコは給食ドロボーでもありました。

みんなのカマボコ(と、脳内お花畑)を守る為、コーデリアさんは自らが濡れ衣を被って探偵学園の座敷牢みたいな場所に投獄されます。コーデリアさんは妄想の中で悲劇のヒロインになりつつみんなのお花畑な光景を思い浮かべて牢屋の壁に落書きをしながら一人で笑っています


わたしは……わたしはジャンヌ・ダルク!!


結局カマボコが犯人だと判明したのでコーデリアさんは(脳内)楽園から追い出されます。
ちなみにミルキィホームズは2~4話までもれなく投獄されており、しかも食事の待遇は普段より良いので、今後牢獄は彼女たちの別荘になるでしょう。

とまぁ1~2話のあらすじを簡単に述べてみましたが、こんなアニメです。
漫然と見てしまうと意味の分からない下らないアニメなのですが、積極的に作品にツッコミ入れるのが好きな人間にはたまらない作品です。

ただ単なるツッコミではまだまだ甘い。
ボーガーが「○○ないいチャージインだ!」「さすがリュウセイさん!」と語って初めて上級ボーガーと呼ばれるように、「さすがネロさん、俺たちには出来ない事を(ry」などと語れて初めてこの作品を受け入れたと言えるでしょう。

ニコニコで公式配信されているので、私も研鑽を重ねて上級シャーロッキアン(でも上級コーデリアンでも上級ミルキストでもいいんだけど)を目指したいと思います。

ちなみに4話は好評ではあるようなのですが、個人的には分かり易いネタなのでやや物足りなくも感じました。
何処かがおかしい……というのを探して受け止めて味わうところに醍醐味があるので、「ここが笑いどころですよ!」ってなってしまうと少し違和感があるのですね。
もちろん面白い部分も沢山ありましたが、1~3話のノリとは少し違うかなと。

まぁ兎に角未知数の作品なので、これからもどんどん超越していってくれる事を祈ります。
そ れ が オ カ ル ト で す !




この作品も最初は不安混じりだったのですけれども、とても良い物に仕上がってくれました。
ドラマも結構丁寧で、伏線なども細かく散りばめ、オカルトとしては濃すぎず薄すぎずといった案配。
そして時間物としてもある程度の作りを魅せてくれたのが嬉しい。

色々謎やら矛盾めいた要素もあるのですが、そこら辺含めて考えていきたいと思います、
5人のアベミノルについて。
これは放映当初、視聴者方の多くがアベミノル=内田文明だと思っていた為に並行世界とかクローンだとかいう話になってしまいました。けれどNo.5の声優さんは別の人で、画面で確認しても黒っぽい髪の男性です(文明は栗色)

そして超能力も違うことから、アベミノルとは過去改変トラベラーのコードネームらしいことが推測されます。
過去改変の為に6人の超能力者が目を付けられ、アベミノルという名を与えられた。
その最後の一人が内田文明だったというわけ。

で、次の問題は5人のアベミノルで過去が変わらなかったのは何故か?
です。
これはざっと思い付いた理由として二通り考えられます。

一つは『やっぱりマヤもまたノストラダムスの鍵だった』のではないか……と言うこと。
美風は完全にマヤを付け狙っていました。マヤが死ねば時空のひずみを生じさせられる、とも。
時空のひずみの因子には二つあったのではないか、という考え方です。

(1)マヤが死んでしまう。これが美風の取ろうとしていた方法。
(2)大人文明が子供文明と出逢う。これが最終回で実現されてしまった方法。

マヤが自分で撮った写真は、念写の要素が欠けているのは文明も言っていたとおり。結局彼女はキチンとした形で写されていません。だから「マヤが鍵ではない」と証明もされていないのです。

この時、5人のアベミノルの世界は並行して存在し、それぞれが滅びの未来に集約されます。
今回は(1)を阻止して、尚かつ(2)に抗ったから平和な未来になったと。

もう一つの可能性は『タイムトラベラーは同一時間軸に送られていた訳ではなく、文明が最後に送られた事自体が滅びの未来を作り出していた』と言うことです。

ややこしいかもしれませんが、マヤも鍵説の場合は学長偽装死後~7月21日に5人のアベミノルが送られることで、それぞれのアベミノルが同一時間軸に存在することとなって並行世界的解釈が産まれます。
この場合はマヤの死がトリガーになると仮定するので6人目のアベミノル=文明が送られなくても未来はそのまんまです。

一方で、5人が死んで6人目が送られる事自体が必然だった……という考え方も出来る。マヤの生死は関係ない、という立場です。但しこの場合、文明が過去の文明と出逢うことが条件ですから時間軸は一本に絞らなければなりません。No.1~5が死んだだけでは文明同士が出逢うこともなく、カタストロフィ自体が起きないからです。
全てのアベミノルが学長死後に送られたと仮定して、彼らがコミュニケーションを取ってないのは不自然です。またモスマンの巣でNo.5のケータイが発見された事も傍証になるかと思います。

No.1~No.5は学長の死(葬儀)よりも先行して送られたのです。

最終回で学長が「私の居なくなった後に送り込んだ」と言っていましたが、この台詞も幾らか解釈が可能です。

今までは先行して送ったが、考えてみても自分の居る時に鍵はなかったので、No.6だけは葬儀時点に送り込んだ……ということ。恐らくタイムマシンも自由に操作できるわけでは無いものと考えられます。

もしも自由に時間移動出来るならカタストロフィ時に送り込んで、何が『ノストラダムスの鍵』なのかを特定した後に7月21日以前に人を送り込んで破壊する……というやり方が通用するからです。

傍証として未来の人が「もうすぐあちらでは7月21日だぞ……」と焦るシーンがあります。

これも自由にタイムトラベル出来たら、時間が無くなった時点で一度帰還させ、また7月初旬辺りに送り込めば済むのです。よって未来人のタイムマシンも何らかの限定条件があるのでしょう。

例えば過去遡航可能なのがが12年と数ヶ月分まで……とかwwwwこれは御都合主義的ですが、少なくとも文明が1999年7月21日を迎えてしまった後に、過去へ送り直すようなやり方不可能なのだと考えられます。なんでわざわざギリギリなのかという疑問もありますが、6人目……最後の一人に合わせて時間を調節していたとすれば不思議ではない。

その中で、内田文明が子供の自分と遭遇して『ラマチャンドラン・フィッシャーの予想』のケースを起こしてしまってカタストロフィ……というのが学長たちの居る未来であった。これが文明が送られるまでの過去が組み込まれた必然的未来という仮説です(もっとも結局未来変わってるから絶対の必然はあり得ないんですけどねwww)

で、今回は何故カタストロフィ回避が為されたのか?
それはもちろん文明が宇宙人に立ち向かったからです。
また、マヤも鍵説を採るならばマヤも文明も生き延びた上で文明が立ち向かったからです。

逆に言えば滅びた未来の歴史では、(マヤが死ぬか)子供文明と大人文明が遭遇しても宇宙人に戦いを挑まなかったであろうことが推測出来ます。

今回は何が違ったのでしょう?

それは子供文明が「自分の足でオカルト学院を訪れたこと」に他なりません。

本来のカタストロフィは7月21日でした、これはつまり子供文明と大人文明が講演会前後に遭遇したことを意味します。子供文明は「親の意向で」オカルト学院を訪れ、大人文明と遭ってしまいました。この場合、未来の人は回避しようと思わなかったのか、マヤは公演を中止しようと思わなかったのか……などの疑問点が残りますが、ともあれこれが滅びの未来、本来の未来でした。

しかし今回は子供文明が親の言いつけに背いて「自分の意志で、自分の足で歩いて」来ました。
それで7月20日に遭遇というイレギュラーが起きてしまったのですが、大人文明はわざわざ「自分の足で歩いてきたのか?」と確認を取っています。(これはどうやら正確には7月20日に行方不明、21日に遭遇みたいですね。ただ子供文明の歩み=大人文明の決意という意味は変わらないと思います)

流されるだけだったはずの自分が、既に自分で歩んでいた。
だからこそ大人文明も自らスプーンを取って立ち上がった訳です。
子供の自分に恥じないように

このスプーンがまた絶妙なところで、これは超能力者ブンメイ君のメタファーです。
それはまた母親の愛を得られなかった過去でもあり、結果として「超能力しか拠り所の無い流されていた自分」でもありました。だからこそカレーを食う時にすら忌避していたのですが、それを自分の手で取り戻す。
ここで中川翔子の主題歌が流れるところなんかは『天元突破グレンラガン』の最終回を思わせて実に気持ちが良かった。
強引だ、という話もあるのでSF的解釈を取るならば

「大人文明は、子供文明との接触によって増大した情報量(超能力含む)を自分の身に移すことにより、一時的に超能力を爆発的に高め、尚かつ過情報を持っている自分ごと時空のひずみに放り込む事により情報量をフラットに戻し、ひずみを塞いだのである」

という感じでしょうか。
ともかく、主人公が戦う意志を固めた上に超能力者(精神の力)だったらそりゃ強くなりますよ!
メチャクチャ? 理屈に合わない?

そ れ が オ カ ル ト で す ! !


と、熱く語ってまいりましたが『アニメカジバノバカヂカラ』と言いたいくらいに最後の最後で本気を出してくれましたね。順番が違わなくて本当に良かったと思います(笑)
JKやこずえも素晴らしいキャラでした、彼らだけで外伝作れそうなレベルwww
そして「夏のこずえ」に於けるこずえのキチ○イっぷりもさることながら、オカルトを求める人の一端に触れるような話もあり、魔法熟女の超バトルもあり、欲張ったものを見事に呑み込んで魅力に変えてしまった作品だったと思います。

このいい加減さ、この懐の広さ、この胡散臭さ

そ れ が オ カ ル ト で す !!!

基本シューティング



ガンダム00と言えば僕がブログを始めた頃に最終回の酷さにリテイクしてしまった作品であり、よってあまり期待しないで観に行った。何故観に行ったのかと言えばやはり一度は確認すべしと考えたからだ。
身銭を切ることで感想にも発言にも幾ばくかの責任が出よう。

結論としては『TVシリーズよりも良かった』という事は言えると思う。
ただTVシリーズの出来と比較してであるから手放しで良い作品とも言い難い
「アクション要素を頑張ったファーストコンタクト物」という評価が一番妥当であろうか。
『アバター』を観た時と似たような印象だった。
ガンダムじゃない、という批判が多いしそれは理解出来る(現に僕と同時に見終わった人がそう言っているのを聞いた)が、水島監督がガンダムから遠いプロットを採用したと明言していたことだし、有益な批判かと言えば微妙だ。

TVシリーズは理解していた方が良いが、ある程度把握していれば充分だ。
『ガンダム00終了時の設定を利用して出来たSFアニメ映画』という感じかな。

作画は頑張ってて、沢山の物がやったら動く(ただし相手はCG)写し方としては分かり難いにしてもこれは良い部分と捉えられる。

従来のように残念なキャラも少なく、過去の残念キャラが居ても矯正(笑)されるかアッサリ退場(笑)させられるので不快感も少ない。

そんな中コーラサワー(厳密には妻の姓にしたらしいのでパトリック・マネキンだそうだ)のキャラは充分に発揮されていて、むしろ敵でない分萌えキャラとすら言える。
オカルト学院のこずえに近いスタンスを獲得しており、アホな子犬を思わせてどんな場面でも和みと癒しの空気を漂わせてくれる。

TVシリーズと最も違うところは、先にも触れたキャラに纏わる人間ドラマや、政治部分が極めて少ないことである。

TVでは妙に頭の悪いキャラやぶつ切り演出に突飛な心情、何の為に出てきたのか分からない奴、なぞの政治描写や戦術などが鼻についたものだったが、それが殆ど無い
また戦術も戦略も一切無く、向かってくる奴らを撃ち落とすだけなので逆にツッコミどころも少ない

ただそれはあまり描かないから出てこないのであって、ドラマパートが上等かと言えば、やはりあまり誉められた物ではない。刹那はイノベイターとして悩んでいる要素が大きいので、その状況は我々の身体感覚には適合しない。また敵勢力も(音声的には)無言で突っ込んでくる為に

何を考えているのかよく分からない主人公と
何を考えているのかよく分からない相手が
戦ってるんだか戦ってないんだかよく分からない


……という感じになる箇所もあって、基本的にドラマは平板である。
ロックオンやアレルヤも心理的変化はTV時点で一通り終わっているので極端な変化はない。

むしろそういう意味ではあまり尺を取っていないティエリアやグラハムが結構人間的な描かれ方をしていたのはちょっと面白かったかもしれない。


脚本的に良い所は悪いところが(TVシリーズより)少ない所で、
脚本的に悪い所は良いところが(一般的な意味で)少ない所だ。



総括すると『TVよりまし』との評価が一番相応しいと思う。


テーマは「分かり合うこと」を掲げており、まぁ一応ながらTV版からの流れもあるしFCものという意味では妥当ではある。ただ異星体を出してしまうと単に「分かり合う」では少々弱い気もする。肝心の分かり合いそのものも、GN粒子と脳量子波で抽象的にやってしまうので実感が湧きにくい(もっとも私も昔似たような話を書いたことがあるので無節操に批判は出来ないwww)

局所論としては「分かり合い」は悪くないが、一般論として分かり合いを押し出してしまうのはやや危険ではないか。突き詰めれば異星体なら捕食者・被捕食者の関係にもなり得るからだ。虎が鹿と話し合えたとて、菜食主義に転向できるわけも無い。虎には何某かの食料が必要であり、鹿を喰わなければそれで良しとするのもおかしな話であろう。
最近、田中啓文の『銀河帝国の弘法も筆の誤り』中の『銀河を駆ける呪詛 或いは味噌汁とカレーライスについて』(酷いタイトルだwww内容も酷いがw)を久しぶりに読んだが、銀河では非知性体よりも死を認識出来る知性体を補食するのがルールであり、人間を見ると極めて食欲を刺激される宇宙生物が登場する。
これらに「分かり合い」など通用しない

また人間同士であっても兵士の教育などを見ると「分かり合えば争いは起きない」という主張の穴が分かる。
兵士は徹底的に人格否定をされ、怒鳴りつけられながら一個の部品と化す。
この過程を皮肉気に描いたのが『フルメタルジャケット』である。もちろん映画ではあるけれども、軍隊で似たような手法を取るのはある意味必然である。それは兵士を一個の部品としなければ軍隊そのものが立ち行かなくなるからだ。
敵の兵士を思いやり、殺すのを躊躇ったとしよう。それは下手をすると部隊の壊滅を招く。
だからそういう事が起きないように「分かり合わないように」システムの中に組み入れる、それが兵士の教育だ。
分かり合えないから争いが起きる、としても世の中はそれだけではない。

分かり合えるのに敢えて拒否する争いもある。

むしろ戦争行為などはそちらの方が顕著ではないだろうか。
兵士に限らず士官だって政治家だってとどのつまりは同じで、分かり合いを出来る状態でも敢えてしないから戦争が出来る

戦争をやめさせるのに一番重要なのはやはり(精神面をも含んだ)利害関係になるのではないか……というのは私見だけれども。

他にも「分かり合い」の描き方として『獣の奏者エリン』『第9地区』『グローリー』などを元に話をしたかったけれども、更に長く微細な事になるからやめておく。

兎も角、分かり合いの重要性を否定はしないにしても、もう少し突き詰めて欲しかったというのが正直な気分。
多分ウルトラシリーズの上手い脚本だったら1話で描いてしまうだろうし(実際ウルトラマンマックスに類似テーマで『第三惑星の奇跡』 という話がある)

カッコイイガンダムマイスター達やらカッコイイガンダム達の活躍を観るのなら悪くない(ただし主人公は殆ど戦わないけどwww)ガンダムシリーズのファンとしては勧められない。
ガンダム00が苦手な人は期待しないでいると思ったよりも好印象を得られるかな?……という作品。
ただ、お金を払うに値するかと言われれば人それぞれなので難しい。